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「坂の途中は、迷いの途中」
夜の坂道というのは。
いったいどうしてこう、永遠に続く気がするのだろう。
あたしはポケットに鍵とコインをひとつ入れたまま、のろのろと熱帯夜の坂道をのぼりつづける。
坂の先にあるのはコンビニだ。
このあたりで夜に開いている場所といえば、コンビニしかない。
坂の下にあるのは、彼のへやだ。
このあたりで、あたしがいけるところといえば、清之(きよゆき)の部屋しかない。
たったいま、くだらないけんかをして出てきたところだけれど。
清之の言葉は、あたしにとって、たいてい意味が分からない言葉だ。今夜はこう。
『だからさ、おれはピンクの爪が好きなわけ。白と青の二色刷りなんて、いらないわけ』
かちん、ときた。この爪は友達のネイリストが塗ってくれたもので。あたしにとって彼女のサロンは、大切な癒しの場所だ。
たとえカレシであっても、あたしが大事にしているものをごちゃごちゃ言われたくない。
あたしは暗い坂の途中で立ち止まった。夏の夜風が熱風になって吹いてくる。
清之の部屋から一番近いコンビニまで、ふたりでよく歩く。
笑いあいながら歩く日もあれば。険悪な雰囲気で、ずいずいとスピード重視で歩く日もある。
街の明かりがとてもきれいで、あたしたちは時々、ここで立ち止まって町を見下ろしながらキスをする。
清之からはあたしの好きな匂いがする。真夏の陽にこんがりと灼かれた草のような乾いたにおい。
清之の肩の後ろで街の明かりが輝いていて。まるで天使の輪のようだ。
そんなとき。あたしはありふれた恋を天使の恵みのように感じる。
今夜は違うけど。
あたしは坂の途中に立ち、一人で家々の明かりを眺めた。
ふと、初めてのキスを思い出す。
初キス、初カレは高校一年のときにつきあったひとだ。
ちょっとやんちゃだった彼は、中学の同級生。高校一年の時に、くしゃみをきっかけに付き合うようになった。
あたしが夜の塾を終えて、帰りに信号待ちをしていた時。くしゃみをしたら後ろから笑い声がした。
『やっぱり、みのりだ。みのりっぽい、くしゃみの音がしたんだよな』
中学卒業後、一年間あっていなかった彼は、いつのまにか金髪の純粋培養ヤンキーになっていた。でも話すと、前みたいに明るくて。
それ以来、彼は塾の終わりに信号で待っていてくれるようになった。
たくさん話した。
たくさん笑った。
キスをした。
初めてのキスは、直前まで彼が飲んでいたコーラの味がした。
塾から家までの帰り道、彼はいつも自転車で送ってくれた。彼の後ろで浴びる夜風は、いつもコーラの甘いにおいがした。
どうして。
恋はいつも、しゅわしゅわとはじける泡みたいな状態で、閉じ込めておけないんだろう。気づくといつも、ブルーと白のフレンチネイルみたいに、クッキリずれて離れて、反発しあう。
近づきたいだけなのに。
好きという気持ちだけがうまく溶け合わずに、ざらりとした手ざわりの麻袋に放り込まれている。
あたしはため息をつくと、のろのろとコンビニまでの坂道をまたのぼりはじめた。
坂の終わりには、みどりとオレンジの看板が光っている。それからコンビニを照らす、白っぽい蛍光灯のあかり。人工的でキンキンした光は、それでも無いより、まし。
深夜1時半。客のいないコンビニで、あたしはコーラと新しいネイルを買った。今度はベージュ系にちょっとキラキラの入ったオーロラ色。
清之が好きかどうかは、もうどうでもいい。あたしの好きな色だ。
レジで会計をしてもらい、外へ出る。店に入るより、少し涼しい風が流れてくる。
風に、柑橘系のコロンがまじった。
コンビニの駐車場には、自転車に乗った清之がいた。
清之は、黙ってこちらに手を差し出す。
『ごめん』はない。
清之はいつもそうだ。悪いと思っているときほど、黙ってむっとして、ただ手を差し出す。
彼の手の上には、言葉よりも明確な愛情がのっている。
大きな手が、言葉の代わりにあやまっている。
『ごめんごめんごめん。おれが言いすぎた』
あたしはそっと、清之の手の上の言葉をつかみ取る。
白×ブルーのフレンチネイルの指。
清之があたしの手を握る。ようやく彼から、すこししゃがれた声が出る。
「何、買ったんだ」
「コーラとネイル」
「おまえ、コーラなんか飲まないじゃん」
「部屋に帰って、ラム酒を入れれば、”クバ・リブレ”になるでしょ。清之、あのカクテルが好きじゃん」
「ライムはねえぞ」
「冷蔵庫にレモンがあったね」
「味が違うわ。あしたライムを買ってくる」
清之は笑った。耳になじんだ声が夏の夜に織り込まれてゆく。
意地っぱりで、どうしようもない男の声だ。
あたしが選んで、あたしが愛した男の声だ。
「帰るぞ」
あたしは自転車の後ろに乗った。ぎゅっと、清之の身体を抱きしめる。
自転車が坂をくだると、あたしの耳元でぴゅんぴゅんと夜風がたわんで、鳴った。
初カレのことを、思い出す。
初めての恋、初めての夜の散歩、初めてのキス。
そうだ。坂の途中で、清之に自転車を止めてもらおう。
町の明かりを眺めながら、キスをするためだ。
いつだって。
夜の坂にはキスの予感が落ちている。
【了】
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