蝉の嘘を愛するひと

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 小さな古いアパートの二階の中部屋。俺は横がけの鞄から鍵をとりだして、扉を開いた。  足を踏み入れてすぐ左手側に台所があって、右にはトイレとシャワー、白い暖簾の向こうに寝室兼居室がある1Kの部屋だ。  靴を脱いだ俺の目の前には、着古した黒いシャツにスウェットパンツ姿の父が立っていた。  父の背は高いほうだが、目線は俺のほうがすこし高い。 「渡した合鍵、はじめて使ってくれたな」  父がうれしそうな表情をして言った。  俺が中学生のときに、両親は離婚した。なぜ離婚したのか、その理由を母に尋ねたことはないけれど、父と会ってはいけない、とは言われたことがない。  この鍵は、離婚後はじめて父と会ったときに「いつでも遊びに来いよ」と言って渡されたものだ。  でも、俺は一度だってこの合鍵を使ったことはなかったし、ここに来たのはきょうがはじめてだ。なんとなく、母に遠慮していたのかもしれない。 「一回くらいは使わないと、もったいないし」 「そりゃそうか」  俺は父のそばを通りすぎて、寝室兼居室に入る。  掛布団が乱れたままのベッド、テーブル、テレビ、洋服箪笥。それ以外は何もない、意外と物のすくない部屋だった。男の一人暮らしとは、こんなものなのだろうか。  じっとしていてもじわりと汗がにじむ暑さに耐え切れず、俺は扇風機の「強」のボタンを押した。  熱風がぐるぐると部屋を渦巻いて、よけいに汗が噴き出す。  体のべたつきに不快感を覚えながら、正方形の黒いテーブルに視線を向けると、空の缶ビール四本、食べ終えたカップ麺の容器、酒のつまみの袋などが置いたままになっているのが見えた。  父は恥ずかしそうに頭を掻いた。 「お前が来るとわかってたら、片づけてたんだけどなぁ」 「普段からやるべきことだから」 「すみません……」  父の顔に、咎められた子供のような表情がよぎる。  べつにこっちも口うるさくするつもりはないのだが、だらしないところが目につくと、ついつい口出ししてしまう。  テーブルの上のゴミをまとめていると、今度は冷蔵庫の中が気になった。  父のことだ、使い切った調味料なども捨てずに残している可能性が高い。  そう思って冷蔵庫を開けると、中身はほとんど空の状態だった。  二本の缶ビールにりんごジュースのペットボトル、その隣に新商品というラベルが貼られたプリンが置いてある。  父は甘い物が得意ではない。  俺がいつ来てもいいように、という気遣いが見えて、小さくため息をついた。  俺の右肩あたりから、父が顔を覗かせる。 「そのプリン食べていいよ。お前甘い物好きだし、新商品って気になるだろ?」 「ならないよ。そうやって浪費癖があるから母さんに愛想尽かされたんだ」  母のことを指摘すると、父は悲しそうに眉根を寄せて、あえぐような声をあげた。 「そ、それは、そうだけど……おいしいものとか、綺麗なものとか、みんな喜ぶだろ? そう思うと買っちゃうんだな」 「限度を知れって話。給料以上の物を買いすぎなんだよ」 「すみません……」    本当にどうしようもない人だ。なのに、どこか憎めない。  だから母さんも、完全にこの人を見捨てられなかったのだろう。
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