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もう先は短いだろう蝉を見送ると、懐かしい記憶がよみがえってくる。
「なあ」
「うん?」
「俺が小学生のころに見に行った花火大会でさ、あんた、蝉がひっくり返って死んでいるのは、蝉も花火を見たかったからって言ってただろ」
「言ったっけ?」
首を傾げる父に、いつもなら苛ついて噛みついていたけれど、沈む夕陽を見ていると感傷的な気分になって、忘れっぽい父の言動が気にならなかった。
「あんたはさ、職場の階段からすべり落ちて、仰向けに転がって死んでたらしいけど、最期に空を見ていたの?」
「うーん、覚えてねぇな」
父は困ったように顎をなでる。
俺は深くため息をついた。
「そりゃそうだよな」
だって隣に立っている父は、俺の脳が勝手に作り出したまぼろしなのだ。
俺には霊感もなければ、幽霊など一度も見たことがない。
その質問の答えなんて、死んだ父以外知るはずもないのだ。
まぼろしの父は「会社には悪いことをしたな~」と暢気に笑っている。
「あの蝉の話で、あんたが言っていた優しいって意味がようやくわかったんだ。それってつまり、医者が遺族に説明するときに使う即死でしたって意味と似てるなって……」
話している間にも、夕暮れ色の空が夜の色に染まっていく。
「即死って言ったって、俺たちには本当かどうかわからないだろ。本当は数秒間でも苦しんだかもしれない。だから、もしかしたらあんたも、最期には空を見たかったのかなって……そう思いたかったのかもしれない」
だらしなくて、浪費癖があったせいでいつも母さんに怒られてばかりの、どうしようもない人だったけれど、仕事熱心で、俺には優しかった父。
階段から足を踏み外したあとも、しばらく誰にも気づかれずに苦しんでいたと考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
もうすこし話をしておけばよかった。もうすこし優しくしていればよかった。
罪悪感に駆られて、目頭が熱くなる。手の中にあるプリンのカップが、軋んだ音を立てた。
「なあ、千歳。べつにそれでいいんだよ」
しばらく沈黙していた父のまぼろしが語り出した。
「どうして死んだか、どうやって死んだかなんて重要じゃない。お前はひっくり返った蝉の嘘を愛してもいいんだ」
「よくない」
父は少年の如く無邪気な笑顔を浮かべた。
「俺がひっくり返って空を見ていたのは、花火を見たかったから。千歳と一緒にな」
ごちそうさん。そう言って、父のまぼろしは煙のように消えた。
その瞬間、涼しい風が吹き抜けて、欄干に置いていた缶ビールがベランダの床に向けて傾いた。
俺があわてて缶をつかむと、缶はおどろくほどに軽かった。
「え?」
おそるおそる缶を逆さまにしてみるが、琥珀色の液体は一滴もこぼれ落ちてこない。
缶の表面には常温にもどしたことによる水滴がついていて、いままさに冷蔵庫からとり出したものにまちがいはない。
缶から目をあげても、父のまぼろしはどこにもいなかった。
「父さん」
そのとき、ドンッドンッと爆発音が連続して、俺は思わず海の方角を見上げていた。
あの日、目を逸らした群青色の夜空には、大輪の光の花が咲いていた。
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