僕のアクアリウム

1/1
22人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 或る暑い夏の日の夜、僕はとても綺麗な人魚を拾った。  その日は朝からひどく快晴で、太陽がじりじりと肌を焼き、おまけにアスファルトの地面も鉄板のように熱されていたものだから、仕事で外回りをしていた僕は本当に死にそうだった。くらくらする頭を気力で支え、やっとのことで会社に戻り書類をまとめたりこまごまとした仕事を片付ける。気付けば日が暮れていた。  定時を数時間過ぎ、荷物をまとめて職場を後にする。外に出ると、むんわりと蒸された夜風が僕の頬に張り付いた。夜も遅いというのに、街の中はギラギラと騒がしい。無意識にため息をついてしまう。すれ違った若い女性が怪訝な顔をした。  大学を出て今の会社に就職して5年。毎日毎日、同じ日の繰り返しのようだった。  学生時代は毎日が新しくて、あんなにずっとどきどきしていたのに。鞄の中には教科書とペンだけ。気難しい教授の長々とした講義を話半分で聴きながら、プリントの隅に落書きしたり、昼休みに学食で友達とテーブルを囲んでくだらない話に花を咲かせたり。レポートの提出が近くなると、友達の家に集まって朝まで勉強会をした。半分はゲーム大会だったが。それが終わると必ず、「打ち上げ」と称して近所のファミレスでわいわいご飯を食べ、ドリンクバーのジュースをつぎ足しつぎ足し、何時間もだべっていた。休みの日には、よく電車に乗って少し遠くの水族館まで行った。大学から一番近いレジャー施設がそれくらいしかなかったせいもあるが、こじんまりとした水族館の建物と、水槽の中を悠々と泳ぐ魚たちが醸し出す静かな雰囲気がお気に入りで、僕は何度も通った。夜は星がとても綺麗で、バイト帰りに自転車を押しながら空を見上げてゆっくり歩くのが好きだった。ドが付くほど田舎にある大学ではあったが、どうにかして楽しみを見つけ、日々仲間たちと遊んでいた。  きっと、あれが青春だったのだろう。  あれだけ楽しんでいたのに、もう田舎は嫌だ。都会に行きたい。と、こうやって背の高いビルが立ち並ぶ大都市に出てきたはいいが、僕は未だにこの街に馴染めない。電車で遠出せずとも、手の届く場所になんでもある。しかし、それが欲しい物とは限らない。見上げる空は何処までも灰色で、街のネオンはあの空に届きやしない。僕はいつしか下を向いて歩くようになっていた。  ああ、一日が終わっていく。  僕の住むアパートは会社からそう遠くない。歩いて10分もすれば着いてしまう。通勤時間が短いことはとてもありがたいけど、今はなんだかそれが窮屈に感じた。  少し、遠回りをしてみよう。  僕はふらふらと進行方向を変え、人を避けるように歩き続けた。  暫くすると人通りが少ない道に出た。あまり遠くには来ていないはずだけど、薄いカーテンで仕切られたかのように、街の灯りも雑音もここだけはぼんやりとしている。ふと、視線を脇に逸らすと、川が流れていた。大きい川ではないが、静かに、緩やかに流れる水の様子が目に涼しい。僕はじんわり汗ばんだ体を、川沿いに設置された柵にもたれかけた。  そうやって暫く、相変わらず生ぬるい風に吹かれながら暗い水面を眺めていると、ぱちゃん、と、水が跳ねる音がした。魚でもいるのだろうか。  僕は、音がした方へ首ごと視線を向ける。ゆらゆらと激しく水面が揺れている。 「……は」  発見して、思わず声が漏れた。水中を揺蕩うそれは、確かに人だった。  何か考えるより前に体が動いていた。幸い、川へ降りれる階段がすぐそばにあったので、急いで駆け降りる。水面の動きは大きかったが、肝心の人の方の動きはなかったように思える。早く助けないと、手遅れに……いや、もう遅いかもしれない……。  ビジネスバッグをその辺に放り投げ、水にざぶざぶと入る。大丈夫、そんなに深くはない。  たぶんその時の僕は、ネオンがギラつくこの街で一番勇敢な男だった。でも、溺れている人の姿が近くなって、とうとう手を伸ばせば掴める距離まで来た時、僕は急に怖くなった。これってもしかして、警察を呼ぶべきだった……?  パニックになった時の人間ほど信頼できないものはない。でも、パニックになっていないと出せない勇気もある。僕は、急に湧いて出た恐怖やいろんな考えをとりあえずシャットアウトし、その人の身体に触れた。 「冷た……っ!」  指先が触っただけでも身震いするほどその人の肌は冷えていた。まるで人間の体温は無かった。僕は感情がぐちゃぐちゃになるのを感じながら、力を込めて肩を抱き寄せた。その人の長い髪が、焦る僕の身体にぺたりとまとわりつく。服は着ていないようで、冷えた柔らかい背中の重みが手のひらに生々しく伝わる。無我夢中で水際まで運んだ。  やっとのことで川から上がり、地面にその体をそっと横たえる。べちゃ、と、濡れた体が音を立てた。 「だ……大丈夫ですか? 聞こえますか……?」  未だ混乱する脳みそで何とか言葉を考え出し、震える口で声をかける。返事がない。僕は目元に流れてきた冷や汗とも川の水ともつかない水滴を手の甲でわしわしとぬぐい、もう一度その人の様子をよく見た。  次の瞬間、僕ははっと息をのんだ。  てっきりスカートか何かだと思っていた。街灯の薄明りに照らされたひらひらと美しいそれは、魚の尾ひれだった。露出したふくらかな胸は人間の女性のもので間違いないが、腰のあたりから下は鱗が規則正しく並んでおり、光の加減で薄紫やターコイズブルーに輝く。  人魚、というよりほか、その姿を表す言葉はなかった。  溺れている人を助けること自体、人生で初めてのことだったのに、それが実は人魚だったなんて。そもそも、人魚が実在してるなんて、あり得ない。普通じゃない。でも、 「綺麗だ……」  明らかな異常事態に直面しているというのに、次に僕の口から漏れ出た言葉は、そんな何とも間抜けなものだった。でも、それくらい本当に彼女は美しかった。  僕は、そっと彼女の口元に耳を寄せる。呼吸があるのかどうかを確認したかったが、そういえば人魚が何呼吸なのかわからない。魚のカテゴリーに入れていいのか、ヒトとして考えていいのか、はたまた人魚独自の呼吸法があるのか。僕は、静かに耳を彼女の口から胸へ移動させる。  ひたり、と、まだ濡れている彼女の皮膚が頬に触れて、目を閉じた。きめ細かい、シルクのような肌。人間並みの体温こそないけど、僕の耳は確かに、柔らかい肌の下でトクトクと響く心音を捉えた。  生きている。  でも動かない。  眠っているだけなのか、どこか体調が悪いのか。僕はスマホのライトを付けて、彼女の身体をじっくり観察する。 「……あ」  よく見ると、彼女の尾ひれは少し欠損し赤くなっていた。今の状態でも十分立派な尾ひれだが、本当はもっと長くて大きかったのだろう。彼女はかなり疲弊しているようだった。これが原因で上手く泳げなくなったのかもしれない。  ふと、大学時代によく行っていたあの水族館での思い出がよみがえる。僕はたまたま、水槽から、傷ついた一匹の魚が引き上げられるところを見かけたことがあった。彼女と同じようにひれが欠損していたようで、僕は好奇心で飼育員さんに「あの魚はどうなるんですか?」と質問した。優しい飼育員さんはにこやかにこう答えた。 「別の水槽に移して、ケガの治療をするんです。きちんと消毒をして、ご飯も食べさせたら、必ず元気になりますよ」 ――  都会のこんな薄汚い川にいては、きっと傷口から菌が入ってしまう。“別の水槽”に、移す必要がある。  僕は彼女を抱きかかえて、人目を避けながら家までの道を急いだ。  誰にも見つからないように細心の注意を払って、無事帰宅した。人通りの少ない道を選んだのと、この街の人間は基本的に他人に興味がないので、案外簡単に家までたどり着いた。  僕は彼女を抱えたまま風呂場へ直行し、電気をつけるのも忘れて、急いで浴槽に水を溜めた。人魚が入るような大きな水槽なんて持ってない。もし、ホームセンターとかに買いに行っても、店の人に怪しまれてしまうだろう。いまはここしか彼女を休ませる場所がない。  少し窮屈かもしれない。しかもこんな、一人暮らしの男の風呂場。 「……ごめんね」  自然とそう呟きながら、僕は並々まで水を満たした浴槽に、とぷん……、と、彼女の身体を浸した。  案外、彼女の身体はこの狭い浴槽にもすっぽりと収まった。彼女の長いマリーゴールドの髪が、水面でゆらゆらとたなびいて、窓からの月あかりを反射する。彼女の濡れた艶やかな肌がてらてらと光を弾いていて、僕は思わず目を細めた。  暗い狭い独りぼっちの浴室。それが今日は、彼女の存在だけで明るく染まっている。  僕は、膝をついてへなへなとその場に座り込んだ。まるで夢を見ているようだった。この街に来て初めて、どきどきと胸が高鳴っている。  僕は吸い寄せられるように彼女に近づき、その小さな手を握った。寂しかった砂漠のような体が、どんどん潤っていく。  ――ああ、ここは、僕の、僕だけの秘密のアクアリウム。  僕は、目を覚まさない彼女を見つめ、暗がりの中で微笑んだ。  それから毎日は楽しくて仕方がなかった。  僕は仕事から帰ると、いつも真っ先に風呂場に向かった。そしてすぐに僕は彼女の隣で静かにシャワーを浴びて、そのままこんどは彼女の尾ひれの傷も優しく洗い流す。ひれは案外柔らかい。傷つけないように、そっと左の手のひらで持ち上げて、右手でゆっくり水をかけた。水で濡れたひれは、上等な布のようにさらさらだ。こうやって、彼女の身体に触れていると、その日あった嫌なことも、疲れも忘れてしまう。毎日水槽の水換えも欠かさなかった。消毒液は何を使ったらいいかよくわからなかったから塗らなかったけど。寝る前には必ず手を握っておやすみを言った。その声に返事をする日はなかったけど、眠っている彼女の表情は日に日に健康的になっていくようだった。  でも、問題なのは食事だった。食べなければ、どんな生き物も衰弱してしまう。目を覚まさない彼女にどうにかしてご飯をあげたかったけど、無理やり口にねじ込むわけにもいかないし、そもそも人魚が何を食べるか知らない。彼女が家に来て数日は食事のことが気がかりで仕方がなかった。でも、一週間たっても普通に心臓は動いているみたいだし、何も食べなくともなぜか出会った頃より血色が良く、少しふくよかになっていた。そこは不思議でしかないけど、そもそも人魚という存在自体謎に包まれすぎているので、あまり重く考えないことにした。  食事に関してもう一つ、これは僕の方の問題だけど、彼女と出会って僕は魚が食べれなくなった。スーパーの鮮魚コーナーを通りかかるだけで吐き気がする。天井から吊り下げられた照明の下で、同じ顔をしてずらりと並ぶ死んだ魚たち。鼻を掠める独特の生臭さ。目がチカチカする様な赤と黄色の値段表記。安売りの命に群がり買い求める人、人、人――  醜い。穢い。汚らわしい。  でも、一番嫌だったのは、死んだ魚を見て、彼女の死を想像してしまうことだった。死んでほしくない。彼女は、僕がこの街でやっと掴んだ光だった。言葉を交わすことができなくても、彼女の内側で鼓動が続く限り、僕は幸せに暮らせるんだ。  恋、と言ったらそうかもしれない。でも、僕のこの気持ちは、そんな簡単な言葉には収まらない気がした。いつかこの膨れ上がるような大きな気持ちを言葉にして、シンプルに彼女に伝えられたら。僕は毎日そんな夢を見る。  彼女が家に来て一か月が経った。  彼女は相変わらず目を覚まさない。でも、人魚の治癒能力はとても強いらしく、欠損部分の再生はみるみる進んでいた。切れていた尾ひれは、ますます長く美しくなった。しかし、彼女のひれが回復するにつれて、僕の家の浴槽はだんだん小さくなる。  彼女の長い尾ひれを、思う存分広げてもまだ余裕があるほど、広いお風呂がある家に引っ越すこと。それが最近の僕の目標だ。そのために、僕は今まで以上に仕事を頑張った。おかげで、職場での僕の評価が少し上がったようで、今まで影が薄かったのが噓のように上司も同僚も後輩も僕によく話しかけてくるようになった。今までだってそれなりに頑張ってきたのに、と思うこともあったが、やっぱり少しうれしかった。 「谷崎先輩、最近、よく笑うようになりましたね」  ある日の昼休み。休憩室で弁当を食べていると、後輩の深山さんが話しかけてきた。 「え……そうかな」 「そうですよ。前はいつもなんだか気怠そうな顔をしてたのに」  僕はそんな顔をしていたのか。知らなかった。 「何かいいことでもあったんですか?」  ちょっと探りを入れるような、不思議な笑顔で質問する彼女。僕の表情まで変えてしまうほどの“いいこと”と言えば人魚を拾ったこと以外ないが、これは僕だけの秘密なので口が裂けても言えない。僕は、曖昧に笑いながら、 「特にないよ」  そう、答えた。  最近は、僕は家にいる時間のほとんどを風呂場で過ごすようになっていた。ただでさえ仕事で帰りが遅いのだ。彼女と少しでも長く一緒にいたい。  シャワーの後、いつものように、もうほとんど治ってしまった彼女のひれを丁寧に洗う。そして僕は身体を拭いて部屋着に着替えると、風呂椅子に腰かけてスーパーのお総菜などを食べる。どれもこれも半額のシールが付いているが、魚料理は一つもない。 「ねえ、お腹すかないの?」  話しかけるが返事が返ってくることはない。それでも、僕は、まだ聞いたことのない彼女の声を想像して、ふふっと小さく笑った。  夜ご飯の後は、僕は眠くなるまで彼女の横顔を見つめた。スマホを見る時間が一気に減った。やっていたゲームにログインしなくなった。テレビでよく見ていたバラエティー番組にも興味がなくなった。  彼女はすっかり、僕の世界の中心だった。  彼女が家に来て3か月ほど経った。いつの間にか夏が終わっていた。会社と家の往復ばかりの日々だけど、それでも街路樹の葉の色や気候の変化で、十分に秋を感じられるようになっていた。日に日に夜が長くなる。僕は今夜も、小さな風呂場で彼女と秘密の時間を過ごす。開けていた窓から月明りと涼しい風が入り込み、僕たちの間の空気を震わせた。 「ゆっくりでいいよ」  閉じた瞼に乗っている長い睫毛を眺めながら、僕は語りかけた。右手を伸ばし、親指で彼女の頬をそっとなでる。  時間がかかってもいい。いくらでも待つ。だから、 「いつか僕に、その瞼の下の、瞳の色を見せて……」  僕はそれっきり、口を閉ざした。何故か、胸の奥がずきずきとうずいて仕方がなかった。  水槽の中で、今日も彼女は美しい。僕のアクアリウムは、完全だった。まるで彼女の周りだけ時間が止まっている。彼女の中の時計の針と、僕の左手の腕時計の小さな秒針は、一生同じ時を数えないのかもしれない。側にいるのに、近づけない。もどかしい。最近、彼女を愛すれば愛する程、苦しくなっていく自分がいる。彼女と出会った日、空っぽだった僕は満たされることを知った。でも、一度満たされる快感を知った人間は貪欲になる。そしてもっと欲しがる。 「……ごめんね」  これで彼女に謝るのは二度目だ。  僕は、はじめて彼女に口づけをした。  翌朝。目を覚ますと僕は風呂場の床に倒れていた。いつの間にか眠っていたようだ。体を起こすと、ズキズキと頭が痛む。若干熱っぽい。 「うう……、体調悪い……」  でも、これくらいで会社を休めない。彼女が来てバリバリ仕事をこなすようになった僕は、最近割と重要な役を任されるようになったり、とにかく忙しいのだ。それに。  僕は、水槽の中で朝日に照らされている彼女の顔を見つめた。  彼女との生活を続けるためにも、すっかり治った尾ひれを思いっきり広げてもらうためにも、僕は仕事を続けなければいけない。今の僕は、彼女といる時間が何より幸せだ。この幸せを守るためなら、なんだってできる気がする。  ふいに、昨日の夜の彼女の唇の感触を思い出して、はっとした。僕は火照っていた顔をますます熱くしながら、朝の支度を始めた。  会社に着いてからも、まだ体温は上がったままだった。熱くて、怠い。しかも、硬い風呂場の床で布団もかけずに数時間眠っていたわけだから、体中が痛かった。それでも、僕はどうにか昼まで我慢して仕事を続けた。だが、とてつもなく作業効率が低下していた。  昼休みの後も、デスクに座って暫くパソコン作業をしていたが、あまりの痛さに中断して伸びをする。その後も、肩をとんとんと叩いてみたり腕を回してみたりしたが、一向に良くならない。 「だいぶお疲れのようですね」  横から声を掛けられ、見ると、深山さんがコーヒー缶を差し出して笑っていた。 「ああ……。ありがとう」  僕も、それを素直に受け取って笑う。 「珍しいですね。先輩、ここ最近ずっと元気そうだったのに」  寝不足ですか? と問いながら、彼女は隣のデスクに座り、僕にくれたのと同じコーヒー缶を開ける。  質問が鋭いな。僕も缶を開けながら、苦笑いをした。 「実は……昨日夜中までテレビを見ていて、寝るのが遅くなったんだ」  適当に当たり障りのないことを言う。しかし、彼女はそこで見逃してはくれなかった。 「昨日、そんなに面白い番組があってたんですか?」 「……え?」 「だって先輩、休憩中皆さんがドラマとかバラエティー番組の話してても、全然興味なさそうじゃないですか。だから、あんまりテレビとか見ないのかなーと」  そんなところまで気づかれていたのか。僕の態度がわかりやすいのか、それとも深山さんの洞察力が鋭いのか。僕はちょっと身構えた。 「えっと……テレビって言うのは、今放送されてるやつじゃなくて」 「録画ですか?」 「そう……。撮り溜めてたドラマがあったんだけど、忙しくてずっと見れてなかったんだよ」 「そうですか」  深山さんがジーっと僕の顔を見る。僕は、また何か質問をされるのではないかと焦った。それ何のドラマですか? とか、どんな内容でしたか? とか。 「谷崎先輩」 「は……はい」 「もしかして、熱があるんじゃないですか」  ガードしていなかった所に、ストレートパンチが入った。僕は咄嗟に笑顔を作って、 「そんなことないよ」  と、穏やかに言ったつもりだった。しかし。 「でも、すごく顔が赤いです。目だってかなりうるんでますし……」  深山さんはとても心配しているようだ。 「体温は測りましたか?」 「……測ってない」 「ちょっと失礼します」  そっと、彼女の手のひらが僕の額に添えられた。突然のことで、ギュッと身を小さくする。深山さんの手は人魚の手とは違って、厚みがあって少し固い。そして温かかった。 「やっぱりすごく熱いですよ。先輩、今日はもう帰った方が良いんじゃ……」  バッと、彼女の手を払いのけた。 「帰らない。ちゃんと仕事するから、ほっといてくれ」  深山さんは目を丸くした。一瞬、職場に流れていた空気が止まった気さえした。  僕は我に返って、 「あ……いや、その……心配ありがとう。でも、大丈夫だから」  と、しどろもどろになりながら笑うのだった。 「この前はすみませんでした」  数日後、仕事を終えて帰り支度をしていると、まだ僕と同じく職場に残っていた深山さんが深々と頭を下げた。人に頭を下げられることに慣れていない僕は、すぐに返事ができなかった。 「急におでこ触って熱測ろうとするとか……嫌でしたよね。すみません」  もじもじと言葉を紡ぐ深山さん。僕はたじろいだ。 「別に嫌ってわけでは……」 「嫌じゃ、なかったんですか」 「いえ、その……」  僕自身、なんであんなに感情が波立ってしまったのか、よくわからない。実際、あの日は本当に具合が悪かったわけだし、それに気づいて心配してくれたのは深山さんだけだった。彼女は何も悪いことをしていない。  口ごもってしまった僕のかわりに、深山さんはぽつぽつ言葉を続ける。 「私……すぐ人のことを考えずに行動しちゃって……。突然おでこを触られたら誰だってびっくりします。それに……」  深山さんは言葉を区切ると、少し長く息を吸った。 「それに、谷崎先輩は一人でなんでもできちゃう強い人です。私なんかが心配しなくても、全然、大丈夫ですよね」  深山さんは少し目を伏せながら、小さく笑った。 「違う……」  無意識にそうつぶやいていた。深山さんがぽかんとする。 「え……?」  深山さんは僕のことを誤解している。 「僕はそんな人間じゃない。一人でなんでもできるように見えるのは、周りに誰もいないからだ。頼らないんじゃない、頼れないんだ。強いんじゃない……」  深山さんに向かって喋っているはずなのに、独り言を言っているようだった。深山さんの顔を見ることができない。自分の足元を見つめながら、浅く呼吸をする。何でこんなことを、言ってしまっているのだろう。 「……じゃあ」  深山さんがそっと口を開く。視線を外している僕には、今彼女がどんな顔をしているかわからない。それでも彼女はゆっくり、願うようにこう言った。 「私には、頼ってくれますか……?」  はっと顔をあげる。視界に映った深山さんの頬はほんのり赤らんでいて、とても複雑な、でも優しい顔をしていた。まっすぐな彼女の瞳と、僕の揺れる視線が交差する。  僕は、耐えられなくなった。 「……ごめん」  自分の鞄をひったくるように抱える。僕は彼女に背を向けると、そそくさと職場を後にした。何故か体中が痛くて苦しかった。  外に出ると、街の灯りと喧騒が容赦なく僕の背中を突き刺す。この街は僕に無関心なくせに、いつもいつも僕の耳に音をねじ込む。煩い。聴きたくない。近づくな。  ああ、会いたい。彼女に会いたい。  肩を丸めて、小走りで家まで帰る。玄関のドアを開けて、靴を散らかすように脱ぎ捨てる。風呂場のドアを乱暴に開けると、僕の人魚姫はいつもと変わらず静かに眠っていた。  ああ、やっぱり僕はこの人が好きだ。  僕は、彼女の細くて冷たい手を取り、頬をすり寄せた。固く張りつめていた心が、どろどろに融けてゆく。  君だけでいい。他に誰もいらない。 「好きだよ……好きだよ……」  僕は溢れ出るままに、返事のない告白を続けた。  季節はすっかり冬になった。街路樹の葉は全て地面に抜け落ち、行き交う人々はみな灰色やベージュやセピア色のコートを着て街を冬色に彩る。  そんな外の変化はお構いなしに、彼女はやっぱり目を覚まさない。でも僕は、本当にいつまでも待つと心に決めた。彼女が話せない分、僕が沢山話しかけてあげる。彼女が動けないなら、僕から手を握ってあげる。自己満足だってかまわない。僕は僕なりに、この恋を続けると決めたんだ。  今日も僕は、会社から帰って、お風呂場のドアを開ける。大好きな彼女に会うために。  空いたドアの隙間から、徐々に彼女の美しいひれが見える。冷たい外の風に吹かれ、凍てついた僕の心臓が再び鼓動を始める―― 「……!!」  僕は、目を疑った。  彼女の、白い背中が見えるのだ。  いつも仰向けに、顔を天井に向けて浮かんでいるはずの彼女が、今日は何故かひっくり返っている。  うそ、噓……! 動いたのか? 自分で……?  でも、うつ伏せにぷかぷかと浮かぶ彼女の姿はなんだか死体みたいで、僕は押し寄せるいろんな感情で喉が詰まってしまった。 「はっ……はっ……はぁっ……」  息を荒くしながら彼女の肩を掴む。反応はない。風呂場の空気はかなり冷えているというのに、汗がだらだら止まらない。  半狂乱になりながら、力ずくでぐるりとひっくり返した。 「あ゛あ゛っ……!」  驚きで、喉から叫びにもならない濁った声が漏れる。  彼女は目を開けていた。  が、  そこに目玉はなかった―― 「……ん……い、……先輩、谷崎先輩!」 「……ひゅっ、かひゅっ……はっ……はぁっ……ぁ……?」  目を覚まして最初に視界に入ったのは、机の上に積み上がった書類とパソコン。肩を誰かに揺さぶられている。聞いたことのある声が頭上から降っている。  呼吸を整えながら見上げた。まだ心臓がバクバクいっている。 「み、や、ま、さん……?」  途切れ途切れで名前を呼ぶと、彼女はとても安堵したような顔をした。 「起きたんですね……。びっくりしましたよ。忘れ物を取りに戻ったら、先輩、机に突っ伏して寝てるし、しかもすごくうなされてるし」  ああ、そうだったのか……。僕は職場で寝落ちしていたらしい。見渡すと、もう僕と深山さん以外には誰もいなくて、部屋の電気すら消えていた。  夢でよかった。僕は長い溜息をついた。 「先輩、頑張りすぎですよ。今何時だと思っているんですか」  深山さんは、僕がいつの間にか落としていたらしい床に散らばった書類を拾い集めながら、小言を言う。集めた書類をはい、と手渡され、僕は無言で受け取った。  何も言わない僕を不思議に思ったのだろう。深山さんは首をかしげて、まだ椅子にだらりと座ったままの僕を見下ろした。  以前、彼女に、「私には頼ってくれますか」と問われたとき、僕は逃げ出した。あの日以来、僕はずっと深山さんから逃げている。でも逃げても逃げても、彼女は僕の隙間に入り込もうとする。心の奥底、内臓に近い部分がぐちゃぐちゃと乱れていく気がした。 「どうしたんですか?」  深山さんは、僕の表情を覗き込むように顔を近づけた。 「……もしかして、どこか具合が悪いんですか?」 「やっぱり私、先輩のことが心配です」 「最近先輩、また笑わなくなりました。何か辛いことがあったんですか?」 「私でよければ、話してください」 「独りに……なろうとしないでください……」  何も言わない僕に様々な言葉をかけてくる彼女。まるで自分を見ているようだった。返事が欲しくて、必死に、必死に、語りかける。  僕は依然、椅子の背もたれに力なく身を任せたまま、首だけ動かして目線をあげた。目が合うと、彼女は逸らしもしないで見つめ返す。  ――ああ、この子はやっぱり僕とは違った。 「あんたに……なにがわかるんだよ……」  僕はぬるりと立ち上がった。僕よりも20センチほど背の低い彼女を、今度は僕が見下ろし返す。少し驚いたように後ずさる彼女の頬を、両手で挟んでグイと引き寄せた。深山さんはふらついた。  こんなことをしても、彼女の両目は、僕をしっかり見ていた。黒い目玉の中には、僕の顔がいっぱいに映っていた。 「た……にざき……せんぱ……」 「……あんたはいいよな。触れば温かい。話しかければ言葉が返ってくる。目を見れば見つめ返してくる。今ここで、あんたが俺に告白すれば、俺は返事をするだろう。俺だってそんな恋がしたかった。人を好きになりたかった。愛したかった……!」  一気にまくしたてる。自分でも自分が何を言っているかよく理解ができない。ただ、本能のままに言葉は次々と外に流れ出ていった。  深山さんの両目から、つうと涙が伝い、僕の指先を濡らす。  僕ははっと息をのんだ。 「だったら……好きになればいいじゃないですか」  彼女は、僕の目を見つめたまま、小さな声でそう言った。ぼろぼろぼろぼろ、涙が零れ出ている。彼女は溢れる雫をそのままに、しっかりとした口調で言葉を続けた。 「好きになってください。それが私でも、私じゃなくてもいい。先輩、前に言ってましたよね。一人でなんでもできるように見えるのは、周りに誰もいないからだって。そんなことない。私は、この会社に入って、ずっとあなたを見てきました。あなたの周りには、温かい笑顔が溢れています。あなたは気付かなかったかもしれない。でも、一人でしっかり歩いているあなたを、みんなちゃんと見守っているんですよ」  深山さんの言葉を聞いて、僕の中の何かがパリンと砕けた。僕は気が付いてしまった。たぶんそれは、とても大事な事で、でもとても簡単な話。  全部、僕が原因だった。耳をすませば、雑音だって意味を持った言語だ。目を背けなければ、街の灯りの中にも美しさはあった。固く握ったこぶしとは握手ができないように、僕が心を閉ざしていたから、この街も、人も、僕の心に入ってこれなかった。顔をあげて少し目線を変えてみれば、そこら中に光はあったはずだった。  僕は、深山さんの頬から、静かに両手を離した。 「ありがとう」  かすれた声でそう伝える。僕の言葉に、深山さんはぱっと顔を輝かせた。そんな彼女がいとおしくて、僕は小さく微笑んだ。でも―― 「でも、もう遅いんだ」  途端に、また不安げな顔をする深山さん。僕のためにこんなに表情を変えてくれる。もし、僕が、もうちょっと早く君の存在に気付けていたら。 「僕は君を好きになっていたかもね」  たぶん、僕の心はこの浴槽より狭い。  並々まで水を満たした浴槽を見下ろして、僕はそう思った。  僕の心は狭い。おまけに、一つのものしか入れられないみたいだ。僕の小さな心は、もうどうしようもないくらいに、彼女で埋まっていた。  心の特等席は、一つだけだった。  僕は、眠ったままの彼女の頬に手を伸ばす。すべすべで、柔らかくて、ひやりと冷たい彼女の頬。僕は手のひらで優しく愛撫した。  人間の体温は無い。これだけ触れても、その瞼を開けることもない。隣にいるのに、やっぱり僕たちは同じ時を過ごせなかった。今までさんざん、僕のアクアリウムだと思いこんでいたここには、本当は僕の居場所なんて一ミリもなかった。  ならば。  僕は、ざぶざぶと浴槽に足を踏み入れた。水が冷たい。僕は構わず、彼女に覆いかぶさるように浴槽に身を沈める。ほんのり、彼女の何とも言えない甘い匂いが鼻腔をくすぐった。濡れたシャツと彼女の長い髪が、僕の肌にぴったりと張り付く。 「ねえ、僕を殺してよ」  僕は、物言わぬ彼女に笑いかけた。  僕を殺して、止まっている君の時間と同じにして。  そうしたら、ここは、僕の、僕と君だけの、永遠のアクアリウムになる。  僕は、水槽に体のすべてを沈めた。水の中で、彼女にキスをする。彼女の華奢な肩をきつく抱き締めながら、何度も、何度も、瞼が重くなるまで、唇を重ねた。  意識が遠くなる中、最期に見た彼女の顔は、水上からの光を反射してキラキラと輝いていた。  ***  とある街の、とあるアパートの一室で、一人の男が死んだ。  風呂場で水をいっぱい張った浴槽に沈み、服を着たまま息絶えていた。  出社時間になっても姿を現さないのを心配した彼の職場の後輩が、警察に通報し、発見に至ったらしい。死からあまり時間が経っていなかったらしく、その姿はまるで、生きている人間が普通に眠っているだけのようだった。  ただ、不思議なことに、浴槽の中で、彼はまるで大切なものを抱き締めるかのような格好をしていた。  でも、その腕の中は空っぽだった。浴槽には、冷たい水と、永遠に眠る男だけ――  しかし。  男の表情は、夢の中にいるかのように、うっとりと満足げに、微笑んでいた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!