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 その夜、龍はなかなか寝つけなかった。  弥生の言葉はショックだった。  自分の仕事が好きだとか嫌いだとか、深く考えたことはなかった。嫌っていてもこの世界で生きている以上仕方がない。考えても意味のないことだ。自分が別の世界で生きることなど。  それが、弥生のせいで、その事が、龍の胸に渦巻いていた。  胸の疼きをブランデーで抑え込む。  何とか眠りにつく。  しかし、悪夢で目が覚める。  どんな夢か、もう覚えてはいない。  酷く汗をかいている。  まるで発作の時の弥生のようだ。  髪が湿るほどの汗だ。  目を開いた龍は、しばらくベッドの上で、天井を睨んでいた。  何かを追い払うように、強く睨んだ。  しかし、それは容赦なく龍を襲った。  恐怖だ。  龍の手は震えた。  何かの中毒患者の様にぶるぶると震え、その震えはおぞましい蟲の様に肩まで這い上がってきた。  龍は自分の肩を抱きしめ、躰を丸めた。  恐かった。  自分のやっている事が?  違う。  自分がこの世界で生きている事が?  違う。  自分が、弥生の世界では生きられないという事がだ。  龍は自分から引き剥がすように両手を放し、ベッドから降りた。サイドテーブルの上にあるブランデーのビンが目に入った。龍はそれを掴むと、壁に思い切り投げつけた。ビンは派手な音をたて、砕け散った。  呪縛が解けたように、龍の体から力が抜ける。  床にすわりこみ、苦しかった息を整える。 「龍様!」  隣りの寝室から男が飛び込んできた。 「どうされました」  広東語でそう言った。部屋のありさまを素早く目で確認する。濡れた壁。床にはガラスの破片と、血のようなブランデーの染。ベッドは乱れ、龍は憔悴しきったように、床にあぐらをかいている。  龍も広東語で言った。 「大丈夫。何でもないよ」 「しかし……」 「起こしてすまなかった。すまないついでに、フロントに部屋を替えてくれるよう頼んでくれないかな」 「はい」  出ていこうとした男を、龍は呼び止めた。 「お前はどう思ってる」 「何をですか」 「あの女の事だ。きっと、見てるのも嫌だったんだろうな」 「私の仕事は龍様をお守りする事です。龍様がどんな女を相手にしようと、私は何も口出ししません」 「口を出してみてくれと言っているんだよ。多分、嫌な気分にさせてしまったんだろうな。すまない」 「な、何を言われるんですか」 「でも許してくれ。お前だから言うが、僕は今、船の造りがどうなっているかや、船室の衛生状態や、来週の打ち合わせの事なんか二の次なのさ。あれだけコストを上げるなと叩かれながらここまで漕ぎ着けたのに、今じゃ二の次さ。どう思う?軽蔑するかい?日本の女に惚れたんだよ、僕は。しかも、違う世界の女だ」 「やめてください。私の事など気にしないでください。それに……そんなに気に入ったのなら、北京に連れて帰ればよろしいじゃないですか。私は文句は言いません。龍様のなさる事なら」 「ありがとう。そうだな、そう出来ればどんなに楽になれるか判らないよ。だけど、出来ない。すまなかった。行ってくれ」  男は素直に部屋を出て行った。  日曜日、龍から弥生に電話がかかってきた。  二人は昼にホテルの中華料理を食べると、また公園に行った。街の中の公園は、そこだけ静かで居心地が良かった。空は晴れ、気温もこの前より暖かい。二人は、今度は芝生にすわった。 「話って何?」  弥生は聞いた。話があるといって呼び出されたからだ。 「君に嘘をついてるような気がしてね。それを話しておきたかったんだ」 「まだ嘘があったの?」 「嘘と言うか、何と言うか。僕の父の話なんだけど、火事で死んだというのは表向きだ。本当は殺されたんだ。犯人は多分、母だと思う」  弥生は口にする言葉が思いつけなかった。 「僕が覚えてるのは、大きく燃えひろがる火と、僕を強く抱きしめてその火を見つめている母の姿だけだ。どんな事情があったのか、今はもう母も死んでしまったから判らないけど、多分、そうじゃないかなって僕は思ってるんだ」 「そう」 「それを言っておきたかったんだ」 「あなたって、律儀ね」 「だね。自分でも変だと思うけど、何だか黙ってるのが落ち着かなくてね。お互い、おかしな境遇だね」 「そうね」  龍が笑顔でそう言ったので、弥生も笑った。 「次の金曜日に、僕は北京に帰る。今度いつ日本に来られるかは判らない」 「そう。なんだか淋しいな」 「それだけ?」 「ん?」 「君はその程度なの?僕は、とっても淋しいよ」  弥生は龍をじっと見てみた。龍は芝生を見つめていて、穏やかな顔をしている。怒ってもいないし、哀しい感じもなかった。 「でも、あなたは帰るしかないんでしょう?私がとっても淋しいって言っても、やっぱり帰るんでしょう?」 「そうだね。いろいろ考えたけど、やっぱり、僕は帰るしかないみたいだ」 「じゃあ、仕方ないわ。泣いても叫んでも、仕方ない事ってあるのよ」 「君は変ってるよ。ドライ過ぎる。君は僕の深層心理にずかずか入りこんでくる。散々かきまわしといて、そんなにあっさり出て行かれちゃ困るよ」 「私が?そんな事したつもりはないよ」 「ひどいな。僕は今こうやって平気な顔をしてるけど、それはここに君がいるからだ。ねえ。僕は君と出会えたのは運命じゃないかと思うんだ」 「それはないと思う」 「どうして?」 「運命の出会いなんてないよ。偶然だよ」 「君は、僕のことは好きじゃない?」 「好きだと思う。でないと、ここには来てないだろうね」 「これは運命の恋じゃないか?」 「あなたは変な女の子に出会ってどきどきしてるだけ。私も変な男の人に出会ってどきどきしてるだけ。それだけのことよ」  龍は笑って、弥生に目を向けた。 「ちっともロマンチックじゃないな」 「そんなものよ」 「だけど、運命を変えてしまう出会いはあるかもしれないよ?それを運命の恋だと言うのなら、あるってことさ」 「でも、私はまだそんな恋はしたことがないから、判らないわ」 「僕は除外されるのか?」 「だって、あなたは今まで通りの道を歩いていくって決めたんでしょう?私は、あなたの運命は変えていない。あなたも、私の運命を変えられない」  龍は返事をせずに、芝生に寝転がった。それを見て、弥生もころんと横になった。晴れていたが、太陽を邪魔しない程度の小さな雲が流れていた。 「君はどうしてそんなに冷静でいられるの」 「とりあえず、一人で生きていくめどはついてるから。あなたがそばにいる生活は楽しいかもしれないけど、それが永遠でなければ、最初からいらない」 「まいったな」  龍は火曜日にもう一度会いたいと言った。弥生は承知した。  待ち合わせの場所は駅前の広場だった。  龍は人込みに会社帰りの弥生を見つけると、大きく手を振った。弥生は気付いてこちらに歩いてくる。そして敬礼風に小さく手をあげた。 「よっ!」  人が多くて騒がしいので、その声は大きかった。 「今日は何?」 「最後の日なのに、もっと優しくしてくれよ」 「判ったわ。今日はどうするの、龍さん?」 「龍でいいよ、弥生。まず、今日は違うレストランで食事をする」  二人はいつもとは違う店で夕食をとった。 「それから?」 「街を歩いて、君の気に入ったアクセサリーを買う」 「私、そういうの興味ない」  龍は弥生の姿をじっくり眺めた。 「本当だ。気付かなかった。何もつけてないんだね。じゃあ、他に何か気に入ったものを買ってプレゼントする」  二人は単行本を一冊と、昆虫図鑑を一冊買った。 「お次は?」 「やっぱり何か、もっとプレゼントらしい物を買いたい」  二人は靴屋に行き黒いブーツを買った。 「今度は何?」 「喫茶店でアイスコーヒーでも飲もう」  二人は喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。ついでにアイスクリームも食べる。 「結構、歩きまわったね」 「うん。喉かわいちゃったよ」 「何かもう一杯飲もうか?僕も飲みたくなった」 「うん」  龍はシトラスティーとアイスティーを頼んだ。 「ねえ、弥生。この店を出たら、駅の改札口まで送るよ」 「ありがとう」 「僕は今、冷静に見えるかい?」 「充分見えるわよ」 「そうか。良かった。僕は人前で取り乱す事は嫌いなんだ。だけど、本当は恐いんだよ。このまま時間が止まってくれればいいと思っている」 「素直なのか、大袈裟なのか、残念だけど私には判らないな」  弥生の静かな笑みには、確かに残念さが表われている。 「素直に言っているんだ。嘘をついても見破られるからね。残念だけど、君は恐くないんだろうね」 「私は、恐いと思う一歩手前で立ち止まることができるの」 「凄い技だ」 「便利よ。でも伝授するのは難しいかも」 「時間もないからね。僕は、それで時間が止まってくれるのなら、永遠にアイスティーを注文しつづけるよ」 「無理よ」 「だから、今日は優しくしてくれる約束だろう?」 「あ、そうだったね。ごめん」 「いいよ。実は結構気に入ってるんだ。君の意地悪なところも」 「変なの」  しばらくして、二人は店を出た。  駅の改札はすぐにやってきた。  弥生は龍を見て、元気でね、と言った。  君も、と、龍は言った。  弥生は改札口に向き直った。龍はその姿を眺めていた。  夜でも駅は人が多かった。雑踏の中、弥生が改札口へ向けて歩を進める。  龍の目には、それがスローモーションのように映った。周囲のざわめきも、龍の耳には届かない。聞こえるのは、弥生の靴音だけだ。  どう考えても、自分と弥生は同じ世界では生きていけない。無理にそうしようとすれば、お互いの世界に歪みが生じる。  突然、龍の耳に別の音が響いた。 「龍様!」  自分をかばうように男がすぐ側まで走ってきていた。声をかけられるまで気付かなかった。男の睨んでいる方へ目を向ける。知った顔だった。 「ツァオ」  龍はそう口にして、男を逆にかばった。  弥生が振りかえる。  銃声が響く。  弥生が駆け寄ってくるのが見えた。 「龍様!何てことを!」  龍は崩れるようにその場に倒れる。それを男がささえる。 「龍!」  弥生の叫ぶ声が聞こえた。背中から胸に痛みが走っている。駄目かもしれない。  弥生がハンカチを取り出し、背中の傷口を押さえてくれたようだった。  龍は胸を押さえていた。 「龍様!」  男は叫び、慌てて携帯電話で救急車を呼ぶ。日本語を使っていた。 「お前は大丈夫か」  龍は自分の声が呟くように小さいことが判った。 「何言ってるんですか!私には傷一つない!こんなことを、あなたは!」  そんなんじゃ、弥生に判らないよ。 「頼みがある。船のことだ。頼んだよ。それから弥生。彼女に危険が及ばないように、守ってくれ。嫌かもしれないが、一生のお願いだ」 「いいですから、黙っててください!」 「いま喋らなくて、いつ喋るんだい?」  口元にはまだ、皮肉めいた笑みを浮かべる余力があった。 「お前は今は逃げろ。お前は警察に調べられるのはまずい。犯人はお前も見ただろう。それで充分だ。今はここから逃げろ。弥生。そこにいるのか?」 「いるわよ、ここに!龍」 「弥生、見えないんだ、よく。もっと近くに来てくれ。ああ、見えたよ。やよい、撃たれたのは初めてじゃないが、ちょっとこれは駄目みたいだ。でもいいかい、よく聞いてくれ。僕はこれから死ぬまでの間、君の世界の住人だ。いいかい?君の世界に入れてくれるかい?」 「あたりまえよ、龍」 「よかった。僕はしあわせだよ。わかってくれるかい?本当にそう思っている。僕はもう、恐くなんかない。僕は、君とおなじ世界に、生きているんだ」 「そうよ、龍。あなたは私と一緒よ」 「泣いてるの?哀しまなくていいよ。僕はやっと、しあわせになれた」 「ねえ、喋らないで」 「じゃあ、キスしておくれ」  弥生は龍にキスをした。  龍の体から力がぬけていった。  しかし、まだ周りの音は耳に届いていた。弥生のやわらかい唇の感触がはなれたのも判った。弥生の声が遠くに聞こえた。 「早く逃げて。あなたは逃げなきゃいけないんでしょう?早く!龍にそう言われたんでしょう!」  男が迷いながら去っていく靴音も聞こえた。 「龍!龍!」  弥生の声はだんだん小さく。 「死なないで!」  聞こえなくなった。
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