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再会
弥生が龍の泊まっているホテルの前を通りかかったのは、翌日の事だった。
弥生は顔をはっきり見ていないので、気が付いたのは龍の方が先だった。ホテルから出てくると、ちょうど弥生が歩いていた。龍は昨日の事を思い出して、弥生を目で追った。ブラックジーンズに緑色のセーターを着ている。持っているバッグもラフなものだった。
龍は腕時計を見た。
ダイヤのはめ込まれたその時計は、午後五時四十五分を示していた。
学生だろうか?
珍しく龍が人に、それも女性に気をとめたのも、単なる気まぐれだったのかもしれない。
龍の周りにいる男達と言えば、脛に十も二十も傷を持ったような者ばかりだし、女達も然りだ。事実、龍は素人の女は相手にしなかった。妙な話しだが、龍は不穏な人間達の中に生きているくせに、そんな人間達に対して深い興味を持ったことはなかった。他人のどんな過去も信条も、龍にとってはどうでもいいことだった。龍は人と話していて、時々、独り言のようになることがある。それは、相手に対する無関心からきているのかもしれない。
龍はただ、そういう世界に生まれてしまったから、そこで生きているだけだ。違う世界の人間ならなおさら、接点を作る気になったこともない。
だから、ほんの気まぐれだったかもしれない。
龍はわざと弥生とすれ違うために、遠回りをして弥生の前方に出た。
よそ見をしている風を装って、弥生に近付く。弥生は面倒臭そうに龍を見て、よけようとした。自分に気付いていないなら、自分がよけるしかないと思ったのだ。しかし、わざとやっている龍は弥生のよける方へ足を運ぶ。二人はぶつかりそうになる。
弥生は少し驚いて、龍を見上げた。
「ああ、すみません」
「いいえ」
と、答えて弥生は、気付いた。
多分、昨日の黒いネクタイの男だ。
今日も黒っぽいスーツを着ているが違うものだった。ネクタイは全く違う。黄色とオレンジ色のレジメンタルで、色目は派手なようだが、下品ではなく、スーツにも似合っていた。
龍は弥生をよけてそのまま行ってしまうつもりだったが、そうは行かなくなった。上手くよけるつもりがよけきれずに、肩がぶつかり弥生の足がもつれた。弥生が倒れそうになったところを、龍は素早く腕でかばった。
「イタッ」
「大丈夫?」
「大丈夫……」
弥生は顔をしかめて自分の足を見た。龍は弥生を支えるために手を貸していたが、弥生は拒んで手をはなそうとする。
「ごめん。僕が悪いんだから、つかまって、ほら」
「いいです」
「良くないよ。僕、そこに宿泊しているんだ。とりあえず、ロビーに行こう。どこかにすわろう」
不服そうにしている弥生を、龍は半ば強引に案内した。そして、ロビーのソファーに弥生をすわらせると、くじいた左足の黒いスニーカーを脱がせた。
「大丈夫ですから、気にしないで下さい」
「そんな訳にはいかないよ。どうやら君は怒っているようだし」
「怒っていませんよ」
弥生がうんざりといった観でそう答えたところで、ホテルの従業員が近付いてきた。
「ファン様。どうなされましたか?」
「ああ。僕がぶつかって、この方が足をくじいたんだ」
「さようでございますか。しばらくお待ち下さい。係りの者を呼んで参ります」
弥生は不思議に思った。ホテルマンの態度がやけにうやうやしかった事と、龍の名がよく聞き取れなかったからだ。しかし、そんな事はすぐにどうでもよくなった。弥生はこの時、足よりも頭の方が痛かったのだ。
龍は最初、弥生が単に短気な人間なのだと思った。が、その顔色が悪いのに気付くと、手の甲を弥生の額にあてた。
驚いた弥生はすぐに首を振って手をさけたが、そのせいで頭の中がぐらぐらと重く揺れた。両手で頭をささえる。
「熱があるじゃないか」
このせいで機嫌が悪かったのか。
「ほっといてよ。早く帰りたいのに……」
「ほっとけないな。しばらく部屋で休んで行くといい」
「はぁ?」
弥生は龍を睨んだ。
龍は肩をすくめる。
「心配するな」
龍はフロントに向かうため立ち上がったが、すぐに係りの者が革のカバンを持ってやってきた。
「ファン様、応急処置のあと医務室へ、」
「ああ、君。部屋をひとつ用意してくれ。この方、熱もあるんだ」
ホテルマンは少し驚いたようだったが、何も聞かずに「かしこまりました」と、答えた。そしてフロントへかけて行き、二言三言かわすと、キーを受け取り戻ってきた。
「ご案内します」
龍も、弥生を振り返って言った。
「ご案内します」
龍はエレベーターの中に入ると、足を引きずるようにしていた弥生を抱き上げた。ホテルマンは一瞬目を見開いたが、すぐに何事もなかったような無表情に戻った。
「やめてよ」
弥生は喋るたびに顔をしかめた。喋るたびに頭痛が酷くなっていく。
「病人のわりに元気があるじゃないか。具合が良くなったら勝手に帰っていいから、少し横になっていなさい。正直言えば、君、この体調じゃ一人で家に帰れないよ」
確かに龍の言う通りだった。
弥生の額には玉のような汗がにじんできている。弥生はあきらめて、もう何も喋らなかった。
龍は弥生をベッドにすわらせると、ハンカチで額の汗をぬぐってやった。拭いたそばから汗はにじんできた。
この時も弥生は何も言わずに、手を振り払うこともしなかった。ちょこんとベッドのふちにすわり、両手をベッドについて体を支えている。
龍はホテルマンからスプレー式の湿布薬を受け取ると、自分で弥生の靴下を脱がし、足首にスプレーした。
やや俯き加減になっていた弥生だが、龍がホテルマンに「君、医者を呼んでくれ」と言うと、口を開いた。
「医者なんかいらない。寝てれば治る」
「……判った。じゃあ、薬は飲むか?解熱剤か何か」
「いらない。親切のつもりなら、出ていって。一人にして」
龍は苦笑いを浮かべて「判ったよ」と答え、ホテルマンと一緒に部屋を出た。部屋を出ると、ホテルマンが言った。
「ファン様、お食事のご用意は何時頃にいたしましょう?」
「うーん、七時くらいでいいよ。そうだ、きっと彼女は勝手に帰るだろうけど、もし気付いたら一緒に夕食をどうかと聞いておいてくれないか?」
「かしこまりました」
「まあ、きっと断られるだろうけどね。僕はちょっと出てくるから」
弥生は二人が出て行くと、とたんにベッドに転がった。
寝たままで片方だけのスニーカーを蹴るように脱ぐ。苦しみながら布団にしがみつく。発熱の次には腹痛が襲ってきた。それから吐き気だ。発汗も続いている。枕もとにあったタオルで顔や首筋を拭く。汗のせいでセミロングの髪は風呂上りのように湿っていた。苦痛を紛らわすために、弥生はベッドのへりを数回叩き、強く握り締めた。頭と腹の痛みは徐々に増してきている。
こうなる事が判っていたから、早く帰りたかったのだ。
年に何回か、弥生はこんな状態に陥る。自分では「発作」と呼んでいたが、原因は判らない。単なる食べ過ぎとストレスによるものだと片付けていた。
弥生はうめきながらベルトをはずして投げ捨てた。転げ落ちるようにベッドから降り、物に伝いながらトイレに向かう。部屋が広くて、すぐにはトイレの場所が判らない。見つけて中に入る。発作の時には苦しみのせいで、どんなトイレだろうとかまってはいられなかった。床に手をついたり、壁に頭を押し付けたり、そんな事はもう仕方のない事だ。しかし今までに起きた発作のどんな時よりも、この部屋のトイレは清潔だった。
三十分程して、弥生は洗面台にもたれながら口をゆすぐ。胃腸の中身は全て出てしまったようだ。おかげで腹痛は徐々におさまっていった。タオルで口を押さえ、ふらふらとベッドに戻る。
やわらかな布団にうもれるようにして、弥生は眠りに落ちた。まだ頭痛は残っていたが、ベッドは心地良かった。
弥生が目を覚ましたのは七時過ぎだった。
起きると少し目眩がしたが、充分気分は良くなっていた。鏡台の前にきて、ブラシで乱れた髪をなおす。くもりのない綺麗な鏡だ。あらためて見ると、いい部屋だった。部屋は寝室の他にも二つの広い部屋があった。ホールには大きなガラスを使ったサンルームのようなものが続いている。考えてみれば汗や口を拭いて汚したタオルも、驚くほどふわふわだった。
いったいあの男は何者だろうか。簡単にこの部屋を取ってしまった。そしてホテル側の、一般客とは明らかに違う対応。
まあ、私には関係ないことだ。
弥生は身支度を整えると、部屋を出た。フロントを通りかかると、先ほど部屋へ案内してくれたホテルマンが小走りにかけ寄ってきた。
「失礼ですが、お客様」
「あ、はい。どうも、お世話になりました」
「いいえ、とんでもございません。あの、もしよろしければ、お食事のご用意をさせて頂いておりますが」
「え?」
「先ほどのお方がご一緒にとの事で……いかがでしょう?」
「ああ、そうですね。一言お礼を言わないといけない、とは思っていたんですけど」
「お急ぎのご用がございませんでしたら、ぜひ、どうぞ。ご案内いたします」
ホテルマンの目は、出来れば来て欲しいと強く訴えていた。弥生は悩んだ結果、申し出を受けた。
あの男にぶつからなければ、こんな事にはならなかったのだ。自宅には、電車に乗ってしまえば十分程で着いてしまう。急げば発作を起こす前に帰ることができた筈だ。しかし、一応は助けてもらった事になる。礼くらいは言って帰ろう。
龍は七時にホテルに戻ってきていた。
もう弥生は帰っているだろうと思っていた。だが、まだ部屋に入ったきりだと聞いて、レストランで一人コーヒーを飲みながら待っていた。
「ファン様。お待たせいたしました」
ホテルマンは弥生を連れてきた。少々誇らしげだ。
龍は立って、弥生に椅子をすすめて先にすわらせる。
「すぐに御料理をお運びします」
「ああ、頼むよ」
龍もすわり、弥生を見る。喋ろうとすると、弥生の方が先に口を開いた。
「私、神崎弥生と申します。いろいろとお世話になりました。ありがとうございます」
「ああ、いや、僕がぶつかったんだからいいんですよ。僕の名前は倣龍。言いにくいだろうから、龍でいいですよ」
龍は少し戸惑っていた。
弥生の態度が、非常に礼儀正しかったからだ。
「ところで、体の具合は良くなりましたか?」
「ええ。熱も下がりました」
「食事は和食で頼みましたが、大丈夫ですか?」
「ええ」
弥生は丁寧に喋っていたが、笑顔は見せなかった。
「でも、よろしいんですか?こんなに親切にしていただいて」
「僕が悪かったんですから、いいんですよ」
「でも、ぶつかったのはお互い様でしょう?」
龍は良心が痛むのに気付いた。自分にも良心があったのかと思うと、軽く苦笑いをもらす。
「いや……僕が不注意だったんだ」
「私の体調がたまたま悪かったから、こんなに迷惑をかけてしまったんです。運が悪かったのかな。年に何回かの発作なのに」
「発作?」
「あ、心配しないで下さい。病気じゃないんです。時々こうなるから、自分でそう呼んでるだけです。本当に寝てればすぐ治るんです」
「…悪かったね。そんな時にぶつかってしまって…」
「わざとぶつかったのならともかく、あの場合は仕方ないですよ。気にしないで下さい」
龍は俯いた。この時、弥生が探るような目付きになったことに、龍は気付かない。
「実は」
龍は口ごもった。
「すまない……わざとぶつかったんだ」
弥生は返事をしない。龍は顔を上げた。
「すみません。あやまります」
「やっぱりね」
「え?」
龍は意外なセリフに驚く。
「そうじゃないかなと思ったの。あなた、ホームでぶつかりそうになった人でしょ?」
「気付いてたのかい?」
「何となく」
「じゃあ、確かめる為にここに来たのかい?」
「それもあるけど、お礼を言いたかったのも本当よ」
龍はため息をついた。
「やられたな」
「いたずらが過ぎるけど、あなた、基本的には悪い人じゃなさそうね。良心に訴えたら、すぐに白状したんだものね」
「もしかして、このまま食事をせずに、帰る気かい?」
「そのつもり」
弥生はそう言って立ちあがった。慌てて龍は自分も立って、弥生の手をつかんだ。
「食事くらいいいだろう?これはお詫びのしるしなんだ」
「家の人が、心配するから。連絡してないし」
龍は左手で弥生の右手をつかんだまま、右手で内ポケットから携帯電話を取り出す。
「連絡したらいいよ」
弥生は龍を見つめた。
やや長めの黒髪が、額に軽くかかっている。涼しい目をした男だ。真面目な面持ちで弥生を見ている。ネクタイが先刻と変わっていた。よく見ると、スーツも変わっていた。
弥生はゆっくりと手をのばして、電話を龍の方へそっと押し返した。
「判った。自分のでかけるから」
龍はほっとして、顔の緊張を和らげる。
弥生は続けて言った。
「判ったから、手、放して」
龍は言われて、自分がまだ弥生の手をつかんでいる事に気付いた。慌ててそれを放す。
「ここでかけても良いの?」
「どうぞ」
近くの席には、龍を気づかうホテル側の配慮か、客はいなかった。弥生は椅子にすわり、自分の電話を取り出して自宅に電話した。
「あ、お母さん?うん、私。今日ごはん食べて帰るから、もう少し遅くなる。うん。うん。じゃあね」
弥生が通話を終えると、龍はたずねた。
「君は学生かい?」
「いいえ。働いてる」
「そうか。真面目なんだね。ちゃんと連絡して」
「普通だと思いますよ」
龍は笑みをもらした。
弥生は笑顔を見せなかった。
食事が運ばれてきた。
二人は口数は少ないものの、落ち着いた時間を過ごした。
弥生が家に帰ると、母親が笑顔で迎え入れた。
「ただいま」
「おかえり。意外と早かったじゃない」
「うん。ご飯食べてすぐに帰ってきたからね」
「誰と?」
「それがねー、変な人なの。道でぶつかっちゃって、私が足をくじいたんで、食事おごらせてくれって。男の人なんだけど」
「まあ。新手のナンパじゃないの?」
母親は少し心配そうだ。
「かもねー。でも、変な人じゃなかったから大丈夫よ」
「何よ。今、変な人だって言ったくせに」
「あ、そっか」
二人はからからと笑いあった。
「足は大丈夫なの?」
「うん、平気。その人ね、中国の人だったの。すごいお金持ちみたいだったよ。R・ホテルに泊まってたから、そこのレストランで食べてきた」
「まあ、R・ホテルに?美味しかった?」
「うん。和食だったんだけど」
「あーん、中華なら良かったのにね。あそこの中華は凄いらしいわよ」
「そーなの?知らなかったな。私が日本人だから、多分気を使ってくれたんじゃないかな」
「そう。ねえ、もしかしてその人、チャイニーズ・マフィアだったりしてね」
「ははは。そりゃ凄いや。じゃ、着替えてくるね」
弥生は自分の部屋に入った。
入って、ほっと息をつく。
母親に発作の話をした事はない。弥生は母親と二人暮しだ。長い間、一人で自分を育ててくれた母親に、余計な心配をかけたくなかった。
龍はホテルの部屋に戻り、風呂に入ると、また違うスーツに着替えた。クリーム色のスーツだ。別に何処かにでかける訳ではない。だからネクタイはしていない。しかし龍はいつもスーツを着ている。一人で部屋でくつろいでいる時も。寝る時も上着を脱ぐだけだ。
そして、何かにつけ龍はそれを着替えた。
龍はブランデーを飲みながら、TVのニュースを見ている。
電話が鳴った。
「どうした?」
「ジャン様から、北京に戻ってくるように連絡がありました」
「何だって?おととい日本に着いたばかりじゃないか。来週の入港を見届けるまでは帰れないよ」
「それが、在来業者の反発が強まっているようです。ジャン様の秘書が行方不明になったそうで」
「つまりあいつらの仕業だと?そんなの承知の上で始めた事だろう。秘書って、もしかしてツァオのことか?」
「はい、そうです」
「僕は元々ツァオは信用していない。行方不明と言うのも見せかけじゃないのか」
「判りません。ジャン様も判断がつかないようです。殺されたのか、裏切ったのか」
「僕は後者だと思うがな。で、僕に戻って、ツァオの代わりをしろとでも言うのか」
「いや、そうじゃありませんが……ジャン様は龍様の身を案じてらっしゃいます。あの一派が龍様を狙っているようなんです」
「それは北京にいても同じ事じゃないか」
「それでもジャン様は、龍様をそばに置いておきたいようでした」
「……すぐに帰ってこいと言っているのか」
「出来るだけ早くと。龍様が帰った後の事は私に任せるとおっしゃいました」
「それは問題ないだろうが。……判った。ただし来週だ。入港は僕がこの目で確かめる。どんな船で来るのか心配だ。後のケアは頼むよ。日本に来たところで右も左も判らないじゃ野垂れ死にだ。それだけは避けたいんだ」
「承知しています、龍様。では、ジャン様にはそう御連絡いたします。来週の木曜日が入港予定ですから、金曜日のチケットを準備しておけばよろしいですね」
「そうしてくれ」
「水曜日に先方と打ち合わせをする迄は、龍様はゆっくりお休みになってください。北京に戻れば多分……」
「ツァオの代わりにこき使われるだろうな」
龍は肩をすくめ、笑って言った。
「龍様、でも、あの一派の動きには用心してください。ジャン様の言われている事は、少なくとも的外れではありません。私も何か情報をつかみましたら、すぐに御連絡します」
「お前も気を付けるんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
龍は電話をきった。
TV画面に目をやり、大きなため息をつく。
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