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 朝の通勤ラッシュ。  弥生は電車からホームに降りる。  車両から流れ出た人の波が改札ゲートを通り抜ける。その大半は地下鉄に乗り換える為に、地下への階段に流れ込む。皆が無表情のまま、ただ歩いている。何かに操られたように。まるで亡霊かゾンビのように。不気味な行進を、弥生は毎朝うつろな目で眺める。そして、自分もその亡霊の中の一人だと感じる。  しかし、たまに、ラッシュの中にあって、スーツ姿で腕をくんでいる恋人達を見かける事があった。  弥生は運命の恋など信じていない。恋などただの気まぐれか、思い込みだ。それは二五才の弥生が今更ながらに思ったことではなく、もっと昔、きっと小さな頃から知っていた。通勤中のこの二人も、はたして五年後、いや明日でさえ、一緒にいるかどうか判らない。しかし、亡霊の行列にこんな風景を見つけると、気休めにはなった。うつろな自分を現実に引き戻してくれる。  ―ああ、私は今、会社に向かっているのだ。  それはつまらない日常の始まり、月曜日の朝だった。いつものように、車両のドアから、人波に潰されないようにするりとホームに降りる。降りるとすかさず早足で前に進む。地下へ通じる階段を弥生はいつも横目に通り過ぎるのだが、その階段の壁のところで、その男とすれ違った。  背の高い、髪の黒い男だった。  男はとくに人をよけて歩こうとはしていなかった。一種の威圧感を持った男だ。黒いスーツを着ているせいもあるだろう。男がよけなくても、周りの人間が道をあけた。弥生はしかし、よける気のない男の気配を感じると、自分が道をあけることに抵抗を覚えた。しゃくだ。癇に障る。弥生はあえてよけなかった。  それは足早な人々の中での、ほんの一瞬の出来事だ。  二人はギリギリまで接近し、ギリギリのところで、お互いの体をかわすようにすれ違った。  その一瞬に男は弥生を見た。  人は自分をよけて通り過ぎていく。  それはあまりに自然な事だった為に、男はもうそんな事には気が付かないでいた。それがこの少女 ―弥生の背が低く、化粧も薄いので、男にはこの時、弥生が二五才の大人にはとても見えなかった― は、「お前がよけろ」と言わんばかりの態度をとった。それは不思議な気配だった。それで、すれ違いざまに弥生の顔を見た。  弥生は電柱をよけでもしたかのような、無関心でいて不機嫌な顔をしていた。  二十センチは身長差のある男のネクタイしか、弥生の目には入らなかった。  しかし、弥生もまた、この男が不思議と気にかかった。  それはきっと、そのネクタイが無地の黒だったからだろう。弥生はそう思った。  男の名は龍。  龍は二人の男と一緒だった。三人は地下街へ下りた。地下鉄には乗らない。地下駐車場へ向かう。紺色のセダンの後部座席に、龍は乗り込んだ。運転席についたのは少々小太りの男で、一人だけポロシャツを着ている。もう一人はスーツを着た中年の男だが、助手席にすわった。龍の方が若いが地位が高いのだ。車が発進するのと同時に、中年男がミラー越しに龍に話しかけた。 「すみません。気のせいだとは思うんですが」 「いや、いいよ。本当に後をつけられてたんなら危険だからね。用心に越した事はない」 「はい。それから、後の事は私に任せておいてください。お手数をかけました」 「ああ、そうしよう。ただ、今回の事があるから、次の取引は更に慎重に頼むよ」 「はい。直接ホテルに戻られますか?」 「そうだな。君はどうする?」 「私は部屋に戻って、ジャン様に報告を。それとも龍様がなさった方がよろしいでしょうか?」 「いや、やめておこう。嫌みを言われるだけだ」 「すみません……」 「いや、気にしなくていい。新事業を始めるには何かしら問題は起こる。このくらいの事で済んだんなら幸運な方さ」 「ありがとうございます」 「しかし、ジャンも次から次へと」 「人を運ぶのは……リスクが高いのでは?」  ためらいがちに中年男は言った。 「僕もそう思っている。ドラッグや銃は何も言わないが、人間は何を喋るか判らないからな。船の中で死なれるのも困る。ジャンにはリスク以上の思い入れがあるんだろう。金か感情か…両方か。他の手合いに任せておけばいいものを、今更…。反発も強い筈だ。君も用心してくれよ」  龍は車窓の街の流れを眺めながら喋っていた。どことなく、独り言のようにも聞こえた。
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