第一章 シンガポール・スリング

2/7
4871人が本棚に入れています
本棚に追加
/105ページ
* 「ごめんっ!!」  と、両手を合わせて頭を下げたのは、同期入社の池田愛菜だ。  私とは同い年で、配属も同じ営業課。入社してからずっと友達だから、付き合いはもうかれこれ四年近くになる。  似たもの同士だと気づいたのは、確かはじめての同期飲み。学生時代から勉強漬けでまともな恋愛経験もなく、このまま一生独身かもね……なんて私が笑いながら言ったとき、「私も同じ!」とビール片手に名乗り上げてくれたのが彼女だった。  以来、独身同盟なんて言って、二人でちょこちょこ一緒に遊んでいたのだけど。 「彼氏の実家にいきなりお呼ばれされちゃってさ。来週のシンガポール旅行、やっぱりキャンセルしてもいい……?」  このときの私の心境はもう、とてもじゃないけど言葉では言い尽くせないほどのものだった。  彼氏いたの? いつから? なんで教えてくれなかったの? ていうか実家? 早くない? それともそんな昔から付き合ってたわけ?  真新しい情報の奔流に頭が真っ白になる中、私はやっと心に秘めた自分の仮面を引っ張り出す。そう、営業用の自分の顔を。 「――いいよいいよ。私との旅行より、彼氏の実家の方が大事だもんね」 「ありがとう! キャンセル代は自分で出すよ、凛に迷惑はかけられないし」  キャンセルの時点で迷惑が掛かっているとは考えないのだろうか。  なんて野暮なことを言っても仕方ない。思えば愛菜には、昔からよく遊ぶ約束をキャンセルされてきた。今回の件に限って言えば、前日キャンセルや当日ドタキャンじゃないだけマシなのかもしれない。 「凛はどうする? 一緒にキャンセルしておこうか?」 「うーん、どうしようかな。もうガイドブックも買っちゃったしなぁ」 「えっ、一人で行くつもりなの? まじで?」  いったい何がおかしいのか、愛菜はけらけらと笑う。 「さっすが凛! 強いねー! 一人で生きていける女!」  ――瞬間、全身の血が逆流したみたいにカッと身体が熱くなった。  強い女。一人で生きていける女。今までも何度か無邪気な声で、人からそう呼ばれることはあった。実際、周囲から舐められないよう、自分でも多少気を張って生きてきた面はあると思う。  でも。 「それじゃあ私、お昼行ってくるね! バイバイ!」  去っていく愛菜の後姿を不恰好な笑みで見送る。  愛菜は通路の角で立っていた男の人――あれ、同じ営業課の山田先輩だ――の腕にするりと腕を絡ませると、廊下のあちこちにハートをまき散らして軽い足取りで歩いて行った。 (まあいいや。もう、考えないようにしよう)  私の目の前の課題といえば、言うまでもない、シンガポール旅行だ。  もともとは遠慮も気兼ねもない女二人旅のはずだった。私も最初からそのつもりで、色々と下調べや計画をしてきたわけだけど。  スマホのスケジュールを確認する。私は三泊四日がよかったのに、愛菜の方の予算の都合で二泊三日になったんだっけ。今となっては変更もできないから、これまた仕方のないことだ。  女一人での旅行への不安。  シンガポールへの期待と憧れ。  ふたつの感情が天秤にかけられ右へ左へ揺れ動く。  ずっと前から楽しみにしていた、綿密なスケジュールも組んだ、ガイドブックも二冊買った、久しぶりの海外旅行。  ぐらぐら揺れる天秤の奥から、愛菜の声が聞こえてくる。さっすが凛! 強いねー! 一人で生きていける女! (……一人で行くか)  ガシャン! 天秤は見事傾き、不安な気持ちは視界の外へと転がり落ちた。  こうして私は諸々の不安にすべて蓋をして、たった一人で遠いシンガポールの地へと降り立ったのだった。
/105ページ

最初のコメントを投稿しよう!