第十一章 黄昏のバス

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 夜が本当に早くなった。傍の公園の芝草の中で、青紫のりんどうの花が寄り集まるように咲いている。少し耳を澄ませてやれば、鈴虫の羽音も聞こえてきた。  黄昏時の物悲しさが、沈黙の車内に重く漂う。 「『自分の幸せ』は見つかった?」  思いのほか優しい声音で言われ、私はひゅっと息を呑んだ。  社長代理の眼差しが、反射した窓ガラス越しにこちらを向いているのがわかる。『自分の幸せ』。それを探しに行くために、離別を決めた私だったけど。 「まだ……です」  素直に答えた私の横顔を大きな瞳で見つめながら、社長代理は「そう」と、穏やかな声で言う。  彼の目線が奥へ逸れた。それだけで、どこか安心している自分がいる。 「俺もさ、探してるんだよね。『自分の幸せ』」 「…………」 「もう、長いこと……一年くらい探してるんだけど、なかなか見つからなくて。これがそうなのかなって思ったやつは、簡単に指をすり抜けていくし。たぶん、俺がもっと早く、しっかり掴んでいれば良かったんだろうけど」  ふぅ、と、細く長いため息を吐く。煙草を吸っている人が煙を夜空へ立ち昇らせるような、遠い何かに想いを馳せる、孤独な旅人の横顔。 「どうしてうまくいかないんだろうね」  半ばまで伏せられた長いまつ毛が、頬に淡い影を作っている。噛みしめるように閉じたまぶた。それが再び開いたとき、大きな鏡みたいに輝く彼の丸い瞳の中に、夜を迎えた街の光がきらきら眩しく映り込んだ。  世界中の夜空を巡って星々をみんなかき集めて、ひとつのまあるい金魚鉢に落とし込んだみたいに綺麗な瞳。輝くばかりに絢爛で、見とれてしまうほどまばゆくて、……でも、言いようのない不安と孤独、そして悲しみを感じさせる目。  その目がふいにこちらを向いた。玲一さんはぱちっと一度おおきな瞳を瞬きして、それから少し困ったように、くしゅっと力なく微笑む。 「そんな顔するなよ」  彼の輝く瞳に映る私のみっともない顔は、今にも泣き出しそうなくらい歪み、陰り、震えていて。 「もう、抱きしめてあげられないんだから」  私たちの間にある子ども三人分の距離が、今は途方もなく遠く、決して縮まらないもののように思えた。
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