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キッシュの最後の欠片を飲み込んで、お茶の代わりにウィスキーのグラスを空ける。
「ごちそうさま。マスター、おかわり」
マスターは黙って皿を下げ、差し出されたロックグラスを引いた。
「こんばんは! ここ、いい?」
「え? ああ、どうぞ」
突然の明るい声に振り向くと、同世代くらいの背の高い茶髪の男がにっこり笑って、隣の椅子に手をかけていた。
耳に透明感のあるブルーのピアスが光っている。薫が頷くと、嬉しそうに腰かけた。
「マスター、俺、ジントニック! あのさ、たまに彼氏とここ来てたよね。今日は1人?」
「え、ええ」
確かに英司とよく来ていたが、『彼氏』というカテゴリに少し戸惑う。
「もしかして、別れた?」
「っ、」
「だとしたら、ラッキーなんだけどなー」
茶髪の男は、にこにこと薫に顔を寄せた。
「ね、俺、どうかな? ……今晩、試してみない?」
「おーい。うちはそういう店じゃないぞー」
ジントニックを滑らしながら、マスターが釘を刺す。
「いいじゃん! 恋愛は自由だって、ね?」
「……そうですね。恋愛は、自由だ」
「ほら! だよねー」
そう、英司が誰と恋愛しようが、自由だ。例えそれが、女性であっても。……英司がバイだなんて、知らなかった。
「前から気になってたんだ、君のこと。今日来て良かったよ」
するりと太ももに手を置かれ、一瞬嫌悪が走ったが、薫はそれを打ち消した。
「俺だったら、そんな風に泣かせたりしないけどなー、こんな可愛い子」
肩を撫でられても、薫は動かなかった。
そんな様子を見て、マスターは2人の前を離れ、カウンターの端で1人で飲んでいるスーツ姿の男性の前に移動した。
「ねぇ、事情は分かんないけどさ。君を泣かせるような酷い奴のことなんか、俺が忘れさせてやるって。幸い恋を忘れるには新しい恋が一番だって、知ってる?」
体ごと距離を詰めた男は、薫の耳元に唇を寄せた。太ももに置かれた手が、内側に滑る。布越しに感じる熱が、気持ち悪かった。
「……俺、上手いよ? いい思い、させてやるよ」
「………」
そのつもりで、ここに来た。
誰でもいいから、抱かれようと思った。何も考えられなくなるくらい、自分を無茶苦茶にして欲しかった。
薫は、ロックグラスに少なめに注がれた琥珀色の液体を、ひと息に飲み干した。
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