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 30代半ばくらいの男性は、グレーのスリーピースに身を包み、穏やかに微笑んでいた。 「櫻井だ。櫻井(さくらい)周悟(しゅうご)。名前、聞いてもいい?」 「……本城」 「本城君ね。よろしく」  マスターが新しく置いた薫のグラスに、櫻井がカチ、とグラスを当てた。 「……薄い」  ひと口飲んだ薫は、顔をしかめる。置かれたグラスの中身は、ロックから水割りに変わっていた。 「飲み過ぎだよ、本城君。どうしたの、話くらいなら聞けるけど」  櫻井の、低すぎない声が妙に耳に馴染んだ。  水のような水割りをごくごくと飲み、薫はぼんやりする頭をゆるく振った。今の騒動で、一気に酔いが回った気がする。今日はなかなか酔えなかったが、やっと酒が効いてきた。 「よくある、笑える話だよ」  思考が酒に沈んでゆくのが心地良い。 「ねぇ、イタリアって、日本から何時間くらいかな」 「イタリア?」  英司は、わざわざ出立前に会社に顔を出した。  皆の祝福を受けるために。 「新婚旅行だって。今頃、雲の上だよ」  薫は頭に浮かぶままに、ぽつぽつと英司の話をした。  櫻井は薫の話を遮ることもなく、時折相槌を打ちながら、手元のグラスに口を付ける。カウンターの向こうで、マスターはグラスを磨いていた。  英司とは、3年、付き合っていた。  男性経験のない薫を気遣うように時間と手間をたっぷりとかける英司は、今にして思えば、逃げられないようにじっくりと絡め取ろうとしていたようにも思う。  薫がノーマルでなかなか靡かない分、英司の狩猟本能が刺激されたのかもしれない。彼は、そういう男だ。仕事でもハードルが高ければ高い程、燃えるタイプだった。 「笑える」  ──でも。全てが打算的だった訳ではない。それは、肌で感じる。分かる。  彼の仕事に対する姿勢が好きだった。常に前を向く、考え方が好きだった。誰に対しても分け隔てなく真摯に接する、誠実なところが好きだった。  何より、自分に対して真っ直ぐに想いをぶつけてくる、情熱的なところが好きだった。彼と過ごす時間は、何事にも代え難い程……幸せだった。 「……笑える」
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