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結婚相手は、会社の専務の1人娘らしい。見合いのような形で引き合わされ、1年程交際していたそうだ。
全く、気が付かなかった。
そういえば、最近では薫の自宅で会うことが多かった。『お前の家が落ち着く』なんて言われて、嬉しかったくらいだ。
「それで、本城君が会社を辞めたの?」
「……もう、嫌だったから」
「若いね」
薫の頬を、涙が伝う。
英司は、結婚しても薫との関係は変わらないと言った。彼女に気持ちがある訳ではないと。
そんな訳はない。彼は、そこまで器用ではない。愛のない結婚ができる程……無情な筈がないのだ。
英司は彼女を愛しているし、彼女を抱くのだ。
薫にそうしたように、愛を囁いて優しく抱きしめてキスをして舌を入れて……彼の熱く滾った雄で彼女の中を情熱的に突き上げて、その最奥に精を放つのだ。そんなことは──耐えられない。
「もう……嫌だ」
薫は、喉の奥が締め付けられるような苦しさに、残り少ないグラスの中身を飲み干した。
櫻井が、その手の中からグラスをそっと抜いた。薫が、ゆっくりと顔を上げる。
「あんたさ、今晩どう? 俺の相手勝手に帰したんだからさ、責任取れよ」
櫻井が少し驚いたように目を見開いた。
「こんなとこに来るって事はさ、あんたも探してるんだろ? そういう相手」
「いや、俺は仕事で来たんだが……」
「ふん。何びびってんだか。いいよ、他探すから」
「あ! 待てよ」
立ち上がった拍子にふらりと倒れそうになる薫を、櫻井が支えた。
「放せよ、邪魔」
フロアの奥から、好奇に満ちた視線を幾つか感じる。相手は、すぐ見つかる。
櫻井は薫の頬に手を伸ばし、するりと撫でた。
「分かった。俺が相手になるよ」
薫がゆらりと櫻井を見上げた。
「……あんた、上手いの? 下手とか、勘弁なんだけど」
櫻井が口端を片方上げて、目を細める。
「心配無用だ──いい思い、させてやる」
さっきの男と同じセリフなのに、今度は嫌悪が走らなかった。
とっくに正体をなくしている薫を抱えて、櫻井は店を出る。
「何だか悪かったね、櫻井さん。大丈夫?」
何故か薫より櫻井の心配ばかりするマスターに見送られ、タクシーに乗り込んだところで、薫の意識は一旦途絶えた。
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