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アスファルトを叩きつけるような、激しい雨だった。
まだ厳しい暑さも残る9月の筈が、今日は朝から過ごしやすいと思ったら、会社を出た途端のこの雨だ。普段ならまだ明るい時間帯なのに、厚い雲に覆われた街は早々と夜に入っている。
役に立たない傘のお陰で、一張羅のスーツもびしょ濡れだった。何だって、わざわざこんなものを着てきたのか……ああ、そうだ。今日が、彼と会う最後の日だったからだ。
「マスター、おかわり」
カウンターの中、人好きのするマスターはわずかに目を細めたが、黙ってグラスを引き寄せた。ロックグラスの、ほとんど溶けていない丸い氷の上に新たなウィスキーを注ぎ、全く減っていないチェイサーのミネラルウォーターをちらりと見た。
「ねぇマスター、何も聞かないの?」
いつも2人連れなのに今日は1人で、しかも濡れねずみで入って来た時点で事情は大体察しがつくのだろう。
マスターはしばらく黙って、口を開いた。
「……何かあった?」
「うん。何かね、いろいろ吹っ切ってきた」
本城薫、26歳。
今日、仕事を辞めてきた。
マスターが、少し眉間に皺を寄せた。
「……英司は?」
「ん。イタリアだって。今頃、雲の上だねー」
薫はへらりと笑って、ウィスキーをあおった。唇に当たるつるりとした氷が、心地良かった。
君島英司は、最低な男だ。
マスターは奥のキッチンに入ると、ひと切れのキッシュをのせた皿を持ってきた。
「これ。試作品なの、食べて感想聞かせてくれる?」
「へえ。おいしそ」
薫は出されたキッシュをつまみ上げ、三角形の尖った角をぱくりと囓る。今日、初めての食事だった。
「……おいし。これ、さつまいも?」
「そうだよ。甘いの好きだろ?」
「うん。……ありがと」
ほっくりとしたさつまいもが、体に滲みる。
ひと口分を飲み込んで下を向くと、ぽろりと涙が零れた。
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