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「本城君、引っ越すんだって?」 「っ!」  大量にコピーした資料を手にした瞬間に放たれた美奈子のひと言に、思わず持っていた紙をバサバサと下に落とした。 「うわっ、本城さん大丈夫ですか?」  後輩社員の相川が、慌てて床に散らばった用紙をかき集める。 「本城さん引っ越すんですか? 手伝いに行きますよ、僕」  美奈子が、白けた視線を向ける。  櫻井と過ごした休み明けの出勤日。  昨日の今日で、何故言う? 櫻井が信じられない。 「新しい住所は知らせてくれなくて結構よ、知ってるから」 「え、どこですか? てか、いいなぁ。引っ越しってテンション上がりますよね! 落ち着いたら遊びに行ってもいいですか?」 「……いや、ええと」  はしゃぐな、相川。  心の中で睨みをきかす。  美奈子がにこにこと相川を見た。 「そうだ。昨日、桜道場の環先生が来たのよね。冷蔵庫のきんつば、食べましょうか」 「……お茶を」 「あ! 僕、淹れます」  桜道場の環は、薫が櫻井音楽事務所での最初の仕事でお世話になった、ダンススクールの先生だ。  教室の正式名称は『(さくら)塞翁(さいおう)踊りの道場』、通称名は『チェリーブロッサムダンススクール』という。 『桜塞翁』の俳号を持つ教室の出資者である環の祖父は、(よわい)90を超すもすこぶる元気だ。  縁あって毎年秋に行われるダンスパーティの音響に、薫は毎回指名してもらっている。前回はいつも一緒に入る島崎の都合がつかず、初めて相川を連れて行った。  あえて環の前情報を与えなかったのは、相川の反応を見たかったからだ。 『私のルンバ、どうだった?』  案の定、全力のリハーサルを踊り終えた環は息を弾ませ相川に詰め寄った。環は初見のスタッフには必ずと言っていい程、この質問をする。  答え如何でその後の対応が違ってくるらしく、環の渾身のルンバをフォークダンスと言ってしまった島崎は、なかなか名前すら覚えてもらえなかった。  相川は、黒い瞳を潤ませ手を前に組み、環を見つめた。 『──すごかったですっ。あの、胸がこう、ぎゅっと』  そう言うと、感極まった大きな瞳から、ぽろりと涙を零した。 「っ! やだっ」  途端に相川を抱きしめた環に、薫と美奈子はぎょっとした。  相川は、涙もろい。披露宴の音響に一緒に入ると、必ずと言っていい程、毎回泣く。一度などは、新婦が両親へ宛てた手紙を読むシーンで号泣してしまい、仕事にならず会場から出したこともある。 『なんて純粋な子なの! ねぇ美奈ちゃん、この子もらっていい?』  もらい泣きに瞳を潤ませた環に、愛想笑いしかない美奈子が印象的だった。
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