飛んで火に入る熱帯夜の俺

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「吉見さんはどうしたんですか? 今日直帰では?」  社員の予定が書いてあるホワイトボードを指差す。「吉見」の枠には「直帰」のマグネットが貼ってある。 「ああ、そのつもりだったんだけど、忘れ物しちゃってね」  吉見が照れ臭そうに笑みを浮かべ、デスクの上からスマートフォンを持ち上げた。 「社用携帯だけ持って出ちゃったみたい。明日は土曜日でしょう? プライベートのやつ回収しておかないとと思って。これ取りに来ただけだし、もう帰るよ」 「そうですか。お疲れ様です」  透は、吉見に背を向け、再びパソコンの画面とにらめっこしはじめた。「帰る」と言った割には、一向に人の気配が消えない。不思議に思い、首だけ動かすと、先ほどと変わらない場所に吉見が立っていた。なぜか俯き加減で、口を開いたり閉じたりしている。なにかを言おうと思いながら、ためらっているようにも見える。  目が合った。ばつが悪そうに微笑まれた。 「それ、急ぎじゃないんだよね? ちょうど良かった。ラーメン、付き合ってくれない?」  なにが「ちょうどいい」のか、まったく分からない。しかし、透も「ちょうど」お腹が減っていた。 「行きます」  二つ返事で了承し、パソコンをシャットダウンした。  元カレのことを考える余地がないほど脳の容量をいっぱいにできれば、仕事じゃなくても良かったからだ。 「ありがとう。嬉しいよ」  ぱっと笑った吉見は、空のてっぺんにある太陽のように眩しくて、透は思わず顔を背けた。
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