機嫌よく

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機嫌よく

 最寄りの大宮駅から、赤羽支社へ帰るため、京浜東北線に飛び乗った。 「ふう。  ちょうど電車がきていたな。  俺の運も、捨てたもんじゃないかな」  夕方のラッシュ前なので、混んではいないが、席には座らず、立っていることにした。  笑顔を心がけ、楽しい趣味のことを思い浮かべてみた。 「今度の週末は、久しぶりにギターを弾いてみるか」  すると、続いて乗ってきた男がいた。  40代の、和夫と同じくらいの歳だろうか。 「すみません。  新宿へ行きたいのですが、この電車でよろしいでしょうか」  見ず知らずの人と、会話が始まることは、あまりない。  そういえば、最近、道を聞かれることも、減った気がした。  知らないうちに、仕事でうまくいかないことで、心を閉ざしていたのかもしれない。 「この電車は、京浜東北線です。  赤羽まで乗っていって、埼京線に乗り換えるのが、一番速いと思いますよ」 「ああ。  よかった。  ご親切に、ありがとうございます。  関西から、出張にでてきたばかりで、電車を間違えたようですね。  助かりました」  ていねいに、感謝の言葉を述べるので、和夫も顔がほころんだ。 「いえいえ。  困ったときはお互い様です。  私は、仕事のことで悩んでいたのですが、週末に趣味のギターを弾いてみようかな、なんて考えていたのです」  自然に口を突いてでた。 「へえ。  ギターですか。  アコースティックですか」 「そうです。  若いときに、打ち込んだのですが、最近弾いていませんでした」 「仕事で行き詰ったときは、ギターを弾くのもいいですね。  私は何もなくて。  仕事人間ですよ」  この人も、自分と同じように、仕事しか見てこなかったのだ。  急に、親近感がわいてきた。 「ギターはいいですよ。  始めは、コードを押さえて、かき鳴らすだけでも、サマになりますから」  男の顔から、笑顔がこぼれる。 「そうですね。  ちょっと、やってみようかな。  ありがとうございます。  おすすめのギターなんか。  そうだ、連絡先を交換しましょう」  名刺入れを内ポケットから取りだした。  和夫も同様に、名刺を差しだす。 「橋本 和夫(はしもと かずお)と申します」 「幸野谷 栄輝(こうのや えいき)です。  お名刺、頂戴いたします」  お互いに、名刺を読んでいた。 「あっ。  グリフィス生命の方ですか。  外資系ですよね。  ちょうどいい。  ドル建ての保険で、いいプランを、教えてもらえませんか」  和夫の方が、困惑した。  勧誘しようなどと、1ミリも考えていなかったからだ。 「ここでは、なんですから今度、ご自宅に伺ってもよろしいでしょうか」 「いや。  せっかくですから、勤務先にきてください。  若い者にも、保険を勧めたいのです。  最近結婚した社員がいましてね」  とんとん拍子に、話が進んでしまった。  鳩が豆鉄砲をくらったように、ぼんやりして、状況を飲み込むのに時間がかかった。 「では、今度伺うことにいたしましょう」 「明日でもいいですか。  早い方がいい。  ついでに、ギターの話も聞かせてください。  なあに。  勤務中ですが、仕事の福利厚生に関わることです。  上司には、これから伝えますから」  幸野谷という男は、すっかり和夫を信頼した様子である。  その日は、意気揚々とした気分で引き上げた。  すぐに、幸野谷から電話があり、明日営業にいく約束を取りつけた。  これには、和夫の上司も驚いた。 「よし。  明日は、頑張ってきてくれ」  激励の言葉が、気分を後押しした。  だが、 「課長。  お言葉ですが、頑張ろうという気持ちが、商談を阻むことがあります。  私は、今日それを学んだから、この話が転がり込んだのです」  自信をもって言い放った。
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