正しい愛情の末路

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「わたし、罹っちゃったかな」  そう言った妻の顔が、悟ったような微笑みを浮かべていた。俺のほうが慌ててしまっていることに、見透かされている気分になり、額に冷や汗が一筋流れ落ちた。 「……なんで、笑うんだ?」 「これだけ爆発的に流行ってるんだもん。いつ罹ってもおかしくないって、わたしは覚悟してたしね。諦めの気持ちが大きいかな」  妻の諦めは病に対するもので、俺に対してではないことに、この期に及んでほっと胸を撫で下ろす。俺になんの疑惑も挟まない妻を、今度は純粋に心配することができた。 「死ぬんだぞ、怖くないのか」  寄生虫に操られて、自殺へと追い込む病なのだ。さながらハリガネムシに寄生されて入水自殺をするカマキリのように、操られ、恐怖の対象へと引き寄せられる。怖くないはずがない。それなのに妻は言う。 「わたし、怖いものって少ないんだよね。高いところも平気だし、痛みにも結構強いの。死ぬのだって、覚悟を決めればそんなに怖くないかも」 「そんな……こと、いうなよ」  強がりなのか本音なのか、すでに死を受け入れたような妻の姿に痛ましさを感じつつ、俺も少しずつ現実を受け止め始めていた。 「先立たれるほうが、怖いでしょう。そんな思いをさせて、ごめんね。だけど、あの日の約束どおりになるわ」  こんな状況なのに、妻は心から幸せそうに俺に微笑んだ。  その約束は、妻がことあるごとに口にするので、いつしか耳に焼き付いた。  念を押すように、先週の結婚記念日にも同じ話をしていた。  結婚十年目の記念として、俺が予約したのは高級料亭だった。普段立ち入らないような店構えと、腕を絡めて頬を上気させる妻に、店の前で一気に気分が萎えていた。  そんな俺の感情に疎く、俺を心の底から信じきって愛しているのが妻の唯一の取り柄だ。  妻の心を傷つけまいとする、これは無謀な賭けだった。勝率は極めて低く、むしろ負けを望んでいるほどの。  いつもどおり取り留めのない話を交わしながら、普段味わうことのない上等な和食に舌鼓を打っていた。 「千鶴、刺身好きだろ。やろうか」  元来、生魚の苦手な俺は、十年間いつもしてきたように皿を差し出した。 「ふふっ、ありがとう。代わりにエビ天いる?」 「ああ」  これが、俺の賭けだった。  SNS上に溢れている噂の一つが真実であること。真実だったとして、料亭で出される刺身に流行りの寄生虫卵が紛れ込んでいること。  可能性は低い。おそらく陰謀は破れ、いつか自分の口から別れを切り出す必要があるだろうと、覚悟はしていた。 「ねえ、あの日の約束、覚えてる?」  後ろめたさから知らず知らずのうちに緊張していた俺は、唐突に投げられた話題に、喉をヒュッと鳴らす。しかし妻を見やると、その目はいつも通り俺への愛情に溢れていて、(ほど)けた俺は何気ないふうを装うことができた。 「ん? ああ。長生きだろ」 「そう。結婚した日に、約束したでしょう。あなたは絶対、わたしよりも先に死なないでね。わたしよりも長生きして、わたしが死ぬときそばにいて」  一方的に過去の約束を告げると、妻は満足したように刺身を咀嚼して、皿を空にした。
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