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少しずつ、首の角度が深くなっている気がする。おかしな姿で笑みを浮かべる妻に、愛はなく情しか持たない俺は、それでもそばに寄り添った。
しかと思い返してみても、俺の行動に粗はない。この程度では、未必の故意は成立しない。
「だから、わたしの願いを叶えてね」
「ああ」
この病に罹った妻の最期を見届けるのは、恐怖でしかない。しかしそれを乗り越えた暁には、妻の願いも、三年前から付き合っている女の願いも、両方を叶えられそうで、俺は充足感に身を震わせた。
――ねえ、奥さんと別れて結婚してくれる? 子どももいないから簡単でしょう?
世間が騒がしくなって以来、不安定になった彼女のそばにいてやれるのは、俺だけだ。
罪悪感がないわけではない。妻と愛人、どちらも裏切ることなんてできないという、俺のエゴイズムが引き起こす妻の死だ。
しかしこれで、どちらの女も幸せにできる。これは前向きな犠牲だ。妻は俺を信じ、愛したまま死ぬ。その上で、彼女のことも幸せにできる。
妻を亡くした悲しみを癒すために若い女と再婚するのは、世間体も悪くはないはずだ。
「わたし、どうやって死ぬんだろう。飛び降りや首切りが流行ってるけど、想像出来ないからかな。全然怖くない気もする」
「怖くても、俺がずっとそばにいるさ」
「……嬉しい。わたし、今までも、今も、最高に幸せよ」
遺言のような妻の言葉に、愛され尽くされたこの十年が胸に込み上げて涙が滲んでしまう。
「俺もだよ。おまえと出会えて、夫婦になれてよかった」
湿っぽい雰囲気に、本気でそう思っているような錯覚を覚える。いや、錯覚ではなくこれは真実だ。妻にとっても、俺にとっても。
不自然な首をした妻が、抱きついてきた。
「愛してる。……わたし、あなたに先立たれることが、一番怖かった。だから――」
バキ、という異音が耳元の妻から響いた。
驚いて身体を離すと、肩に耳がつくほど傾いた頭に付いている、目の焦点はぼんやりとしていた。
「千鶴……」
ああ、ついに死ぬのか。寄生虫に操られ、自らが一番恐れる方法で。
ふらりと立ち上がった妻は、おぼつかない足取りでキッチンへと歩いた。もう妻は妻ではないようだった。それでも、最後の約束を守るため、俺はそばにいる。
妻が刃物立てから一本の包丁を抜き取った。
そして――
くるりと俺に向き直り、その切っ先を振りかぶった。
呆気に取られてもたつく足は、妻のそばを離れることはなく。
尻もちをついた俺の腹を、胸を、幾度も包丁が切り裂いて血飛沫を撒き散らす。
何故だ、何故だ、なぜだなぜだなぜだ。
痛みと混乱で絡まった思考に、妻の最後の言葉がよぎった。
わたし、あなたに先立たれることが、一番怖かった――。
〜終〜
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