幻蚊

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幻蚊

 地球温暖化に伴い、熱帯地方原産のマボロシカが日本にも生息するようになってからというもの、夏の夜は以前とは比べものにならないほど危険になった。  世界で最も多くの人間を殺している動物は蚊だという話があるが、多くの場合、実際に危険なのは蚊そのものではなく、蚊を利用して人間に感染する原虫やウイルスである。しかしマボロシカに限っては、そうではない。マボロシカは、ハマダラカやアカイエカのように危険な病気を媒介するというわけではなく、マボロシカそのものが危険なのだ。  マボロシカは、漢字では「幻蚊」と書く。実在しない幻の蚊という意味ではない(そうであれば、どれほど良かったか)。幻を見せてくる蚊、という意味を込めて、この名はつけられている。ゲンワクカ(幻惑蚊)という別名もあるが、俺としてはこちらの方がしっくり来る。しかし一般に広まっているのは、マボロシカの名の方である。  マボロシカが日本に北上してくる以前に、俺はテレビの自然番組でマボロシカの生態について取り上げているのを見たことがある。  なんでも、マボロシカの羽には楽器のギロのように細かい溝がついており、これを擦り合わせて音をたてるのだという。 その音はいわゆるモスキート音というやつで、人間の場合、通常は子供のうちしか聞くことができない。しかし意識の上では聞こえていなくても、脳には届いていて、無意識の部分に作用する。  単調な音の繰り返しは催眠状態の誘発に利用されることもあるが、マボロシカの立てる羽音の場合、無防備な無意識の領域に作用する分、効果がより高い。しかもこの羽音は、脳の中でも恐怖を司る扁桃体に対して特に強く作用するのだという。このため、マボロシカの近くにいる人間は気づかぬうちに催眠状態に移行し、怖ろしい幻覚を見ることになるのである。  そしてマボロシカは、幻覚に怯え混乱し蚊のことなど目に入らなくなった人間から、悠々と血を吸うというわけだ。  テレビでそれを見た時は、面白い生態を持つ生物もいるものだと思ったものだったが、実際に身近にマボロシカが生息するようになると、面白いなどとは言っていられなかった。  車の運転中に幻覚を見せられたことによる交通事故、逆に幻覚を見せられた歩行者が車道に飛び出したことによる事故、他にも階段から転落する人が出たり、珍しいところでは見せられた幻覚があまりにも怖ろしかったために公衆の面前で突然失禁してしまった人もいたりと、マボロシカが原因で起こった事故は枚挙に暇がない。  このため、今では道行く人々は皆、ノイズキャンセリングを応用したモスキート音キャンセリング機能を持つヘッドホンやイヤホンを常に装着するようになっている。  自宅にいる時だって、安心はできない。他の多くの蚊と同様、マボロシカもまた室内まで侵入してくるからだ。  日本に先んじてマボロシカに侵入された米国では、幻覚を見せられた男が家族を射殺してしまう事件があったそうだが、類似した事件は日本でも起こっている。
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