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「あ、ああ……」
俺はふらふらと立ち上がって、後退った。
やってしまった。
いつかこんな日が来るのではないかと怖れていた日が、ついに来てしまった。
俺はただ、呆然とその場に立ちすくむことしかできなかった。
どのくらい、そうしていただろうか。
数分くらいではないかと思うが、数秒だったかもしれないし、逆に数十分……ということはないにしても、十数分くらいだったという可能性もある。
とにかく、ただ呆然と立ち尽くしていた俺の目の前で、ふいに娘の死体が消えた。
まるで、最初からそんなものなど無かったかのように。
最初は混乱した俺だったが、すぐに気がついた。
本当に、最初からそんなものは無かったのだ。今のもまた、マボロシカが見せた幻覚だった。
俺はずっと、俺が何かを怖れる姿をもし楓子に見られたら、俺もまた殺されることになるのではないかと怖れていた。
だからこそ、楓子と二人で暮らすあの家にマボロシカが入り込むことを、神経質なまでに怖れていた。
今のは、そんな俺の恐怖がマボロシカの羽音に刺激されて生じた幻覚だったのだ。
そして恐らく、呆然と立ち尽くしている俺から思う存分血を吸ったマボロシカが飛び去ったことで、幻覚から解放されたのだろう。
そこまで考えたところで、俺は気づいた。
そうじゃない。
もし俺が真に怖れていることが、何かを怖れる姿を楓子に見られた結果として楓子に殺されることなら、今の幻覚の結末もそうなっていたはずだ。
だが幻覚の中の楓子は、弱々しい声で赦しを乞うばかりで、俺を殺そうとはしてこなかった。
そうだ、幻覚の中で楓子を殺した直後、俺は思ったではないか。
いつかこんな日が来るのではないかと怖れていた、と。
そうか。
それが、俺の一番の恐怖か。
それさえ分かれば、その恐怖を現実にしないための最も確実な道は簡単に見えた。
俺は、月明かりの照らす土手へと上がった。
今朝方までの雨で増水し、ごうごうと音をたてながら流れる川は、夜に見ると黒々としていて実に怖ろしい。
もしかするとこの川もまた、マボロシカが見せる幻なのかもしれないな、などと頭の片隅で考えながら、俺はその怖ろしい、しかし一番怖ろしいわけではない川に、身を投じた。
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