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蚊取り線香が手に入る最寄りの店は、自宅から三十分ほど歩いたところにある。仕事を終えて帰宅した直後とはいえ、たかだか三十分程度のウォーキングで音を上げるほどひ弱なつもりはない。
だが問題は、時間帯だ。既に日は沈み、マボロシカが活発に飛び回る頃合いになっている。
一瞬、今夜一晩は蚊取り線香無しで凌ぎ、マボロシカの活動が低調になる日の出後になってから買いに行った方が良いのではないかという考えが頭を過る。
しかし俺は、すぐにその考えを打ち消した。
たとえ窓を閉め切ったとしても、マボロシカに限らず蚊というのはどこからともなく侵入してくるものだ。そして家には、俺だけでなく楓子もいる。蚊取り線香無しで一晩を過ごすなど、考えられない。
確かに、吹きさらしの夜道では、自宅にいるよりもマボロシカに出くわす確率自体は高いだろう。しかし今の俺は、モスキート音キャンセリングヘッドホンを装着済みだ。たとえマボロシカに出くわしたとしても、せいぜいが気づかぬうちに血を吸われるくらいのことである。何を怖れることがあるだろうか。
田舎町の夜道は、街灯から次の街灯までの間隔が拾い。二本の街灯のちょうど中間あたりでは、ほぼ月明かりに頼っているような状態だ。しかも、蛍光灯が古くなっているのか、かなり頻繁に点滅する。
少し前までは街灯自体無かったという話なので、これでもまだましになったとは言えるのだろうが、それにしたって薄気味が悪い。
左手の土手を上がるとその向こう側には川が流れているのだが、今朝方まで降り続いた雨で増水していて、ごうごうと音をたてている。その水音も、こう暗い中で聞くと、何やらホラー映画の効果音のように聞こえてくる。
今にも、向こう側から火かき棒を手にした女の幽霊がふらふらと歩いて来そうだ。
そういえば、若者達の間では、虫籠に閉じ込めたマボロシカの羽音をあえて聞く肝試しというのが流行っているらしい。俺から言わせてもらえば、理解できない感覚だ。そんなものを聞いて、火かき棒を手にした女の幽霊でも見てしまったらどうするのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、突然、耳元でピーピーと甲高い警告音が発せられた。驚きのあまり、思わず声をあげそうになる。
すぐにそれが何の音であるかには気づいたが、気づくと同時にもう一度声をあげそうになった。
モスキート音キャンセリングヘッドホンの、バッテリー切れアラートだ。
そういえば、職場から帰宅する経路でもずっと使っていたのに、そのまま充電することなくまた家を出てしまったのだった。
今いる地点は、家と店のちょうど中間あたり。つまり、ここから店までは約十五分だ。
大丈夫。そのくらいなら、いけるはず。
それに、万が一マボロシカに幻覚を見せられてしまったとしても、今ここに楓子はいない。いるのは、俺だけだ。
それなら、大した問題じゃない。
そう思いつつも、自然と早足になってしまう。
その時、ふいに背後から肩に手を置かれた。
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