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「たかしぃ」
右耳のすぐ後ろで、名が呼ばれる。俺の名だ。同時に、生温かい息が首元にふきかけられた。
何かを考えるより先に、反射的に振り返っていた。
真っ赤な服を着た髪の長い女が、息がかかるほどすぐ傍に立っていた。
そしてその手には、熱を帯びた先端部が赤々と輝く火かき棒が握られている。
何も問題ない。これは全て幻覚だ。マボロシカが見せる幻覚は、なにも視覚にだけ作用するものじゃない。聞こえた声も、感じる息づかいも、先ほど肩に置かれた手の感触も、全て幻にすぎない。
落ち着いて考えれば、理性がそう教えてくれただろう。
だが不意討ちだったこともあり、理性が働く間も無く、俺の脳内は恐怖一色に塗り潰されてしまった。
俺は悲鳴をあげて尻もちをつき、そのままの体勢でずるずると後退った。
「たかしぃ、お前は悪い子だねぇ。悪い子にはおしおきをしないといけないねぇ」
「くっ、来るな! 来るんじゃない!」
ゆらゆらと近づいてくる女に向けて、喚きちらしながら腕を無茶苦茶に振り回す。尻もちを着いた体勢でそんなことをしたものだから、バランスを崩し、俺は背後へと倒れてしまった。
倒れながら、俺は半ば無意識のうちに叫んでいた。
「お前はもう、死んだはずだ! あの時、殺したはずなんだ!」
後頭部が強かに打ちつけられる。舗装されていない土の道で、今朝方まで降り続いた雨のせいでぬかるんでいたため、痛みはそれほどでもなかったが、後頭部にべっとりと泥がつく嫌な感触があった。シャツの背中にも、泥が染みこんでくる。
だが、そんなことには構っていられない。
早く逃げないと、あの女が来る。
そして、あの火かき棒で俺を――
ふと気がつくと、女の姿は影も形も無くなっていた。あたりは、いつもと何ら変わらない夜道だ。
いや、俺はここに引っ越してきてからというもの、こんな時間に出歩いたことはほとんど無いので、本当にいつもと変わらないのかは分からない。だが、少なくとも不審なものは何も見当たらなかった。
混乱が収まってくると、ようやく先ほど自分が見たものがただの幻覚に過ぎないという実感が湧いてきた。
しかしそれにしても、なぜ突然幻覚は消えたのだろうか?
訝しく思いながらも立ち上がり、後頭部に付着した泥をいったん手で拭ってから、次にその手から泥を落とそうとする。
そこで、気がついた。
後頭部から拭い取った泥に、蚊の死骸が付着している。恐らく、幻覚を見せていたマボロシカは後頭部にとまっていて、俺が倒れた時に潰されたのだろう。
このマボロシカが幻覚を見せなければ、こんな道端で俺が倒れることもなかったはずで、このマボロシカは自ら死を招いたことになる。なんとも間抜けな話だが、マボロシカはべつに狙った幻覚をこちらに見せられるわけではない。
奴らはただ催眠状態を誘発し、更に恐怖を喚起するだけ。その恐怖の中に何を見るかは、完全にこちらの脳次第だ。
マボロシカ側の都合とは関係無く、人間の側が怖れているものが幻となって立ち現れてくるのである。そして俺の場合、それがあの女……俺の母親だったというわけだ。
やはり俺は、今でもあの女が怖いのか。
あの女に対して恐怖を感じずにいられたのは、あの時限りのことだったか。
だが、もう大丈夫だ。
今のは不意討ちだったから取り乱してしまったが、たとえもう一度あの女の幻が立ち現れたとしても、次はもう少し冷静に対処できるはず。
なにせ本物のあの女は、もうとっくに死んでいるのだ。死者を怖れるなど、馬鹿馬鹿しい。生きている人間の方が、よほど怖ろしい。そのことを、俺はよく知っているはずだ。
一度大きく深呼吸してから歩き出そうとした時、またも背後から声をかけられた。
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