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「お父さん?」
振り返ると、薄暗がりの中に女が一人立っていた。
一瞬、またあの女の幻が現われたのかと思った。
だが、違う。そこに立っているのは、楓子だった。その表情は、陰になってよく見えない。
「お前、なんでこんな所にいる?」
俺は、恐る恐る尋ねた。
「いつから、そこにいた?」
顔の見えない楓子は、答えた。
「お父さんが財布を忘れて行っちゃったのに気づいて、追いかけてきたの。そしたら、お父さんが誰もいない方に向かって叫んでて、どうしたんだろうって……」
背筋をぞわっと悪寒が這い上がった。
見られた。
怯え、とり乱す俺の姿を、よりにもよって楓子に見られた。
そう理解した次の瞬間、俺は楓子を殴り飛ばしていた。
「お父さん、どうして……!?」
悲痛な声をあげて倒れた楓子の上に馬乗りになり、その顔面を繰り返し繰り返し、渾身の力を込めて殴りつけた。
殺される――そう思った。
見られたからには、ここで殺しておかないと、今度は俺が殺される。
あの時、俺が自分の母親を殺したように、今度は俺が殺されるのだ。
十四歳の時、俺はマボロシカに幻覚を見せられ、その幻覚と現実の区別がつけられなかったせいで自分の母親を殺してしまった。
マボロシカのせいで起こってしまった、不幸な事故――表向きは、そういうことになっている。
だが、真相は違う。
あの時、まだ子供だった俺の耳には、マボロシカが立てるモスキート音がはっきりと聞こえた。だから、それが無意識に作用する前に、耳を塞ぐことができた。
幻覚を見せられたのは俺ではなく、あの女の方だった。
どうやら自分にとっての父親――俺にとっての祖父――の幻を見ているらしいあの女が、怯え、取り乱し、泣いて赦しを乞う姿を見て、俺は思った。
今なら殺せる、と。
それまで、あの女は、俺にとって絶対的な恐怖だった。
中学生となった俺は、身長ではとうにあの女を超えていて、腕力でもまず間違いなく上回っていたが、それでもあの女の前に立つだけで恐怖で体が硬直した。
それまでも殺そうと思ったことは何度もあったが、今にもカッと目を見開いてあの赤々と光る火かき棒の先端を俺の肌に押しつけてくるのではないかと思うと、寝込みを襲う勇気すら持てなかった。
だが、他者に――正確には、その幻に――怯えるその時のあの女は、もはや恐怖の権化ではなかった。
今なら殺せると思い、そして俺はそれを実行した。
俺の殺人は、マボロシカに幻覚を見せられたことによる心神喪失状態で行われたものと判断された。そして未成年だったこともあって、結局、俺は罪には問われなかった。
だが、俺自身は知っている。
何かを怖れる姿を他人に見られるのは、それ自体が怖ろしいことだ。
それを見られたら、気づかれてしまう。こちらが、その気になれば簡単に殺せるか弱い存在だということに。たとえ腕力でこちらが上回っていたとしても、そんなことは関係ない。たいていの人間は、寝込みを襲うなり隙を突くなりすれば殺せるのだ。
あとは、そのことに相手が気づくかどうかの問題だ。
先程までは聞こえていた、やめて、とか、ごめんなさい、といった楓子の弱々しい声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
我に返って見下ろすと、楓子の顔は……隔世遺伝なのか、年々あの女に似てくるその顔は、もはや原形を留めないほどに潰れていた。息をしていないのは、明らかだった。
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