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「行ったら?」
彼の背中を見つめたまま、私は言った。
「でも、今日は二人でお店周ろうって約束したし」
「友達より、好きな人と一緒のほうが楽しいでしょ」
特にこういう時は。
「そんなこと」
ない、と言いかけた口をふさいだ。けれどそれは、唇ではなかった。
「いいから行ってきなさい」
体ごと彼女の向きをかえて両肩を押す。
「でも」
「でもじゃない」
まだ踏ん切りをつけない彼女に苛立つ。私の心が揺らぐから、やめてほしいのに。
「私、変じゃない?浴衣崩れてない?」
振り返る彼女は不安そうに私を見るが、そんなこと杞憂に終わるだろう。
「大丈夫、綺麗だよ」
それだけは本心だった。ずっと言いたくて、言えなかった本当の気持ちだった。
「よし、行ってくる」
いつもと同じ笑顔で、いつもよりもっと綺麗な彼女が、私じゃない人のところへと離れて行く。その事実に、汗じゃない別の何かが滲んで、堪らなくなった。
「ねぇ、言ってなかったけど」
ふたたび振り返り声をかけてきた彼女に、慌てて顔を作り、何、とたずねる。
「その浴衣、似合ってる」
悪戯に微笑む姿が憎らしい。憎らしいほど、愛しい。そして、苦しい。
この季節に似つかわしくない涼やかな風が袖に絡む。指先の、さっき触れたそこが熱い。薬指と中指をそっと自分の唇におき、なぞる。柔らかく、潤んだあそこに触れることはもう、ない。そして、一番近くにいることも。
遠巻きに見る二人は自然な恋人同士に映った。これでいい。深く息を吸いこみ、裾がはだけることもお構いなしに大股歩きで鳥居を目指す。緩んでずれてきたかんざしを引き抜いて、みぞおちに挿すと、ぽたりと何かが帯を濡らした。
夜は長い。けれど夢は短い。私と彼女の最短距離は、きっとここまで。
完
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