死に水の屋台

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 年に一度の夏祭りの日だけは、子どもが夜に出歩くことを許される。  町外れの小さな神社は、夏祭りに来た人々で賑わっていた。普段は人っ子ひとりいない寂れた神社にも、この夜だけは人が集まる。  壁が取り払われた本殿では、紅白の着物を着た巫女が神楽を舞っていた。笛と太鼓の音色が、鎮守の森を超えてどこまでも響いていく。  僕はこの日のために貯めていたお小遣いを握りしめて、屋台を見て回った。  たこ焼きの香ばしいにおいが鼻をくすぐる。けれど、綿飴やりんご飴といった特別な日の食べ物も捨てがたい。  あちこちに目移りしていた僕は、人混みの中に見知った顔を見つけて、はっとした。  それは5年生で同じクラスになった、金森とその取り巻きたちだった。  さきほどまでの楽しい気分も忘れて、僕は胃の中に重たいものを感じた。金森は6年生をも黙らせてしまうワルで、僕のようなチビはアイツの格好の獲物なのだ。  僕はまわり大人たちの陰に隠れて、こそこそと逃げ出すしかなかった。  金森たちは何時に帰るのだろう。  そう考えながら人混みを離れていくと、神社の裏手に回り込んでしまった。明かりのない石畳の道は暗く、どこまで続いているのかわからない。  不安になって戻ろうとしたときだった。  木々に隠れるようにしてぽつんとある、小さな屋台の明かりを見つけた。  思えば、まだ何も買い物をしていない。僕はポケットの中の小銭を握りしめて、その屋台に近づいていった。  それは期待していた食べ物屋ではなかったようだ。見たことのない屋台だった。  台にかぶせられた黒い布の上には、親指くらいの小瓶に入った水が並んでいる。飲み物には見えないから、女の人が付ける香水か何かだろうか。  だけど、入っている水の色が綺麗なものばかりではない。泥を溶かしたような茶色や、少し白く濁ったもの、くすんだ赤色のものもあった。  がっかりしながら眺めていると、屋台の店主が声を掛けてきた。 「坊や、誰かを呪いたいのかい?」  僕はぎょっとして顔を上げた。  占い師みたいな格好をしたおばさんが、無表情で僕を見下ろしている。 「どういう意味ですか?」 「あら、知らずに来たのかい。ここは死に水の屋台だよ。死に水ってわかる?」 「いいえ」 「人が死んだときには、死に水を取るっていう作法があるのさ。その人が死後に飢えや渇きに苦しまないようにね。やり方としては筆で唇を濡らすのが一般的だけど、うちの死に水は違う。死んだ人の口に水を含ませてから、それを吐き出させるのさ。瓶に入っているのは、死者が吐き出した死に水だよ」  僕は屋台に並んだ小瓶をもう一度見た。綺麗ではないと思っていた色が、さらにおぞましく感じられる。  僕は気持ち悪くなって、後ずさりした。  人のいる方に戻ろう。そう思ったときだった。 「待ちなよ」  店主がそう言うと、僕は腕をつかまれたみたいに動けなくなった。 「話は最後までお聞き。私が死に水を取るのはね、死者の怨念がこの世に残らないようにするためなんだ」 「怨念?」 「そう。不幸な死に方をした魂は、この世に未練を残して彷徨うことがある。そうならないように、死者の怨念を死に水として吐き出させるんだよ」 「じゃあ、ここに並んでるのは死者の怨念ってこと?」 「その通り。強い、強い、怨念さ。だから、この死に水を使って人を呪うこともできるのさ」 「人を呪う……」  僕は逃げようという気もなくして、店主の話に耳を傾けていた。 「たとえば、これ」  と、店主は赤黒い小瓶を持ち上げる。 「これは交通事故を起こして死んだ男の死に水さ」 「赤いのは、血の色なの?」  指を切って出る血より、ずっと暗い色をしていた。 「トラックに巻き込まれて、内臓が潰れた。体の深いところから血を吐いたんだ」 「その水をどうやって使うの?」 「呪いたい相手に飲ませるのさ」  僕はまた気持ち悪くなった。でも、店主は構わずに続けた。 「ほんの少しでいい。ひとりの憎しみは、関係のない大勢の人を呪い殺す。ほんの2、3滴、オレンジジュースに混ぜてごらん。きっと気づかずに飲むよ」  僕は小瓶の中の死に水に釘付けになっていた。あまり綺麗だと思わなかったそれらが、きらきらと輝くお宝のように見え始めた。 「他にはどんな死に水があるの?」  店主は色々と教えてくれた。  茶色いものは、腐乱死体の死に水。誰にも看取られることなく死んで、腐っていった。  緑色のは、病死の死に水。不治の病に冒されてもなかなか死にきれず、ベッドの上でのたうち回った。  僕はそれらが欲しくなった。 「いくらなの? 僕、お小遣いあまり持ってないよ」 「そうだろうね。子どもに買える値段じゃないよ」  それを聞いてがっかりした。一緒に来ているお父さんを呼んできても、死に水なんか買ってもらえるわけがない。  でも、それならどうして僕なんかに声をかけたのだろう。 「お金がなくても、売ってあげるよ」  そう言われて、僕は顔を上げた。 「坊やは、お金よりももっと価値のあるものを持っているね」 「それって、何?」 「坊やがいつか死ぬことさ。人はみんな、いつか死ぬ。だから坊やがおじいさんになって死んだときに、その死に水が欲しいんだよ」  それくらいなら簡単なことだと僕は思った。 「いいよ。僕の死に水はおばさんにあげる」 「交渉成立だね。さぁ、この中から好きな死に水を選びな」  僕は屋台に並ぶ色とりどりの液体を眺めた。くすんだ色のものより、鮮やかな色のものに目を引かれる。 「この青い死に水は何?」 「それは若くして死んだ画家の死に水さ。最後に空を描いていたんだ」 「じゃあ、この赤い水は?」 「それは小さな女の子の死に水さ。車に轢かれそうになった飼い犬を助けようとして死んだんだ」 「とても綺麗だね」  他の死に水はくすんでいるのに、この小瓶の赤色だけは、透き通るように鮮やかだ。その輝きは、僕の目を引き付けて離さなかった。 「この赤いのにする」 「はいよ。飲ませ方は、自分で考えな」  屋台のおばさんは、僕の手に赤い液体の入った小瓶を握らせた。 「坊やは目ざといね。それはうちの店で一番新しい死に水だよ」 「可哀想だね、その女の子」  その子の血が瓶の中に溶けていると思うと、少し胸が痛んだ。 「さぁ、お行き。呪いたい奴がいるんだろう」 「うん。ありがとう、おばさん」  僕は右手に小瓶を握りしめて、屋台が並ぶ参道の方に戻った。
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