パーマネント・ムーン

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 翌年短大の2年生になった十六夜は、夏休み前に教習所に通い始めた。近くの教習所は夜間教習もやっている。炎天下を避けた涼しい夜間に、来年就職を控えた学生たちで場内は混み合う。  今日から実際に構内で車に乗ります、と担当教官が十六夜の前で挨拶をしてきた。50歳前後の温和な感じの教官で、十六夜は安心した。もはや都市伝説にすぎないが、短大の仲間内では教習所の教官はものすごく怖くて間違えると蹴ってくる、という「嘘の噂」がまことしやかに言われていたからだ。本田と名乗った教官はバインダーを抱えて優しく微笑んだ。優しいラガーマンのような人だった。 「今日は初日ですので。車の乗り方、エンジンの掛け方など、基本的なことだけやりますから、緊張しないでよく見ていてください」  最初に言われたとおりに、今日は主に教官の本田が車を動かしてお手本を見せる、という内容が多くてほっとした。正直運転に対してまるで自信のない十六夜は、緊張でガチガチしていたのだ。 「さて、今日はあと何周か構内を回ってコースを説明して終わりとしましょう」  助手席に十六夜を乗せて、本田はゆっくりと教習車を走らせる。 「天野さんは、イザヨイさんって言うんですね。珍しいお名前ですね」  本田は丁寧にハンドルを握り、前を向いたまま気さくに話しかけてきた。 「よく言われます。父はマンゲツっていう名前で、その父が付けてくれました」 「そうですか、いや女性らしくて素敵なお名前ですよ」  照れて十六夜は頭を下げた。もともと十六夜という名前は、父がずっと昔から決めていた名前だと聞いている。父は自分の満月という名前を気に入っていたけれど、満月という名前が持つ過度な期待感が嫌いなのだと言っていた。膨らみ切ってこれ以上ない輝きをみんなが注目するのがプレッシャーなのだと。だからいつも写真のように、ふざけたポーズで破天荒に笑っていたのかもしれない。  娘には、そんな満月ではなくていい、少しだけ欠けた部分を抱えてそれを謙虚に大切に守っていけるような子になってほしい。自分の弱さだったり他人の弱さだったりを、受け入れて飲み込める人になってほしい。それが十六夜の名前の由来だ。 「素晴らしいお父さんですね」 「ありがとうございます」と素直に十六夜は嬉しくて頭を下げた。 「ただ父は、私が生まれてすぐに交通事故で亡くなったんです」  少し間を開けてから、嘆息するように本田は言った。 「ああ、そうでしたか、それはお気の毒だ……」  そして、遠くフロントガラスの向こうを見やって、静かに口を開いた。 「実は私にも幼い娘がいたのですが、10年以上前にやはり交通事故で亡くしましてね」  十六夜は顔を本田の横顔に向ける。 「通学中に、わき見運転をしていたトラックに……。あの時、私が隣にいてあげたら、別の道を行かせていたら、とずっと悔やみました。それで私は勤めていたタクシー会社を辞めたんです。運転ができなくなったんですね。でもそれからしばらくして、自動車教習の教官になろうと決めたんです。ささやかな罪滅ぼしという気持ちでしょうか」  十六夜は黙って本田の横顔を見つめていた。皺の刻まれた穏やかな横顔に、写真の父の顔がダブる。 「教習車で街中を走ると、嫌でも年頃の女性を見かけます。ああ娘が生きてたらきっと今頃こんな風に恋人と歩いているのだろうな、などと。ぼんやりしちゃいけないのですがね」  教習所構内のすぐ脇を、カップルらしい男女が寄り添って歩いているのが見える。  心の中で父の声がする。お父さん、と十六夜はつぶやいた。 「なんてね。さて、このままドライブでも行っちゃおうかな」  え? と思って運転席を見ると、陽気にハンドルを握った本田さんがサングラスをしてこちらを見ている。いつのまにか本田さんの青い制服の肩に、もじゃもじゃの髪がかかっている。サングラスの縁が一瞬きらりと黄色に光った。 「お父さん?」 「あれ、今日満月なの忘れてた?」 「そうか。そうだったね」  十六夜は涙が溢れた。 「十六夜、誕生日おめでとう。二十歳だね」  父は開けた窓枠にかけていた右手の親指をくいっと上げる。 「あしただから、まだ」 「ごめん。満月が合わせてくれなくてさ」 「うん」 「十六夜これからも、元気でな」  運転席へ勢いよく顔を向けて「いやだ」と十六夜は叫ぶ。 「もう、十六夜も大人だし。一人で、というか、これからは素敵なカレシがお前を守ってくれるから。俺ももう心配しないで行けるよ。あとは母さんに託して俺は隠居する」 「待って、お願い」  教習車は、構内のちまちましたコースをいつまでもグルグル回っている。お願い、このままずっと止まらないで。  やがて車は所定の停車スペースに乗り付けた。涙で霞んだ目の前で本田がバインダーに記入して笑顔を向けている。 「はい、お疲れ様でした。今日はここまでにしましょう」  十六夜は両手で顔を覆って泣いた。気がついていたのだ。今日でおそらく最後なのではないかと。  いつまでも降りられない十六夜の肩を、そっとやさしく触れる手があった。「大丈夫」 「大丈夫ですよ。月は欠けても、見えないだけでずっとそこにいますから」  免許取得に向けてがんばりましょう、という本田の声と父の声が重なった。  十六夜は何度も強く頷いた。 (了)
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