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満月の夜だった。夏の夜空に青白い夕焼けのような黒い雲をたなびかせて、静かに眠る住宅街を照らしている。
十六夜はガレージに面した縁台に座って夜風を吸った。
「いよいよ一人暮らしをするそうじゃない」
いつもののんびりとした低くて温かい父の声が、お隣の庭との仕切り柵の向こうから聞こえてきた。良かった。お隣さんに父がいてくれた。
「うん。やっぱり通うのが不便だから、お母さんと話して夏休みが終わったらってことにしたの。お母さんがちょっと心配だったけど、あんた何言ってんの、全然寂しくないから大丈夫って強がってた」
十六夜は縁台に後ろ手をついて、喜びをかみしめながらのんびりとした口調で答える。
「母さんはいつも強がりだからなあ。でも十六夜の方が俺は心配だ。あんな臆病な子だったから毎日ホームシックで泣くんじゃないかと」
「もう、いつまでも子供じゃないし。私も来年は二十歳だからね」
「そうか、もうそうだよな」
「あ、二十歳のプレゼントはそんなに高くなくていいからね」
「やや、いきなりプレッシャーだぞ」
柵の向こうで、声だけの父がおどける。十六夜は上を向いた顔をそのままにうっとりと目を閉じて微笑んだ。
久しぶりの父との会話だ。今日はお隣さんで安心した。ゆっくり話をしたかったからだ。
十六夜の父親である天野満月が交通事故で亡くなったのは、十六夜が生まれて間もない頃だった。そのため、十六夜には父の記憶がない。
自由奔放な父だったと母は言う。わがままで気ままな旅人なのだ。結婚したばかりだというのに、数年間だけ外国を旅して回りたいからと母を説得した。一緒についてきてほしいと。気が強い母は馬鹿を言いなさんなと突っぱねた。行くならあなたひとりでどうぞ。私はいい人を見つけます。
結局その父の突拍子もない夢は実現しなかった。母の腹に赤子が宿った。生まれ来る子を放って行けないと、父は生まれたばかりの十六夜を溺愛した。しかし十六夜が生まれたちょうど1年後の7月に不運にも交通事故で亡くなってしまった。
父満月は、自分が亡くなった7月の満月の夜になると時々十六夜の隣に現れた。毎年だったり何年振りだったりとまちまちではあったが、ふと気が付くと隣にたたずんでいる。十六夜は、気配ですぐに父と分かった。
父の存在は、声だけの時もあれば、違う誰かの姿を借りて現れる時もある。毎回違う形だけれど、会えるのはその日1日だけ、満月の夜だけだ。
「そうか、十六夜ももう来年は二十歳か。あっという間だなあ」
「あっという間だよね」
父の声は明るくて少しユーモアがあって、母が大事にしている写真そのままだ。写真の父はいつも変なポーズをしている。髪型も変なパーマだし。でも顔はイケメンじゃないけど愛嬌があっていつも笑顔。父の写真を見るのは小さい頃から本当に大好き。
「十六夜は何が欲しいんだろうなあ」
「あ、プレゼントのこと考えてる」
「そりゃあ二十歳だからな。特別だ」
「気が早いなあ。まだ来年だよ」
「今からもう考えちゃうぞ」
ふふ、と十六夜は笑った。
「嬉しい。でも、プレゼントはいらない」
仰いでいた空からふと目をそらし、横目で柵の向こうを窺う。相変わらずお月様がきれいだけど、少し地平線に近くなってきた。沈みゆく満月を見るのは切なくて嫌いだった。
「え? どうして」
「何もいらないよ。お父さんがずっといてくれればいいから」
少し間が空いた。十六夜は本心だった。目を閉じた。
「何言ってんだ、大丈夫。俺ずっと隣にいるから……って、おい、これラブソングの歌詞じゃないか」
もう、と呟く。そうやって茶化すんだから。
柵の向こうで父が笑った。いつもの父の子供のような笑い声。いたずら小僧のように口を大きくUの字にして細い歯を見せながらシシシシって。そんな口の形が月明かりの残像のように十六夜の閉じた瞼の向こうで残った。そして父の気配がふっと消えた。
父が現れることを、十六夜は中学生になるまで母には黙っていた。ひょっとして自分がそう思っているだけかもしれない、という気持ちがあった。それに母はいつも話した。あの人は気が付くとふらりと旅に出てしまうような人。交通事故で勝手にあっちの世界に行ってしまって、また自由気ままな旅を始めたんだと、そう話す母の言葉には父に素直に言えない愛情が滲んでいた。幼い十六夜はだから父がそばにいることを、うまく母に言えなかったのだ。
その母に中1の時に思い切って話した。その頃には、父の存在は絶対だと思っていた。
母は特に何も驚かなかった。「あら、そうなの」と十六夜の顔をまじまじと見つめ、「あの人らしいわ」と言った。拍子抜けした。母の前にも現れているのかと思った。
「違うわよ。お父さん私の前に出てきてくれたことなんてないから」
と母は笑う。
「あなたがお腹に宿ったと知った時の顔ね、傑作なんだから。いきなり自由人から家庭のパパの顔になって。なんて単純な人って思ったの。だからね、あっちの世界に行ってもあなたのことが気になって仕方無いんじゃない」
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