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ゆっくりとした規則的な足音が止んだ。顔を上げると、真船さんは壁にかけたカレンダーを見ていた。私達が撮った写真を集めて作ったものだ。八月の写真は、三角屋根をした円い小屋を真ん中に、画面の端から端までを覆う水面にかかった木製の橋、そして湖畔に並ぶ建物の白い壁。灰色がかった湖面にはそれら皆が影を作り、そして画面上部、薄水色の空にかかる七色の橋が、水面に映って円を作る——夏のルツェルン湖の夕方だ。
「懐かしいねぇ。よく夏に行ったよ。音楽祭があってね」
「真船さん、弾かれたんですか?」
「数回だけね。まだ若い頃の話だよ」
真船さんは世界的に活躍するピアニストだ。今は自分の演奏より後進の指導を中心にしていらっしゃるけれど、これまで国内外のオケや演奏家と沢山のCDを出している。
「葵ちゃんは、今年は撮影旅行は行かないのかい?」
「あ、はい……まぁ……」
「やっぱりこの感染症の蔓延じゃぁ、行きにくいよね」
そう聞かれて、いえ、という言葉と一緒に、私は無意識に視線をキーボードに落としていた。
「……これからは、ポートレート専門で行こうと思っていて」
リターンキーをわざと強く、短く弾く。
「それは……やっぱり、詞ちゃんが原因かい?」
パソコン画面の白い光が眩しい。
その画面の隅で、出しっぱなしのもう一つの三脚が、蛍光灯を反射して黒光りする。
「……風景写真は、詞の方がよほど上なんですよ。このスタジオも私一人には広いし。ポートレート撮影のセット作るのにいい部屋見つけたので、近く移転します」
営業用の声を作って、私はキーを打ち続けながら言った。
「なんだか、もったいないね……音楽と同じで、今だからこそ君たちの写真は見たいけどな」
真船さんが壁を仰ぎ見て、吐息するのがわかった。
「……僕は、二人の撮る旅写真が大好きだったよ」
静かな声に、顔を上げることができない。
* * *
「それじゃあ、データが上がったらメールでお送りしますね」
玄関の扉を開けると、別世界のようなむっとした空気が全身を襲う。締め切った室内ではエアコンの音に消されていた蝉の大音声が耳を圧迫し、私は声をやや張り上げた。
「よろしく頼むね。こちらも演奏会のチケット、すぐに送るから」
「ありがとうございます」
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