うわ、死人

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うわ、死人

 うわ、死人。  と思ったら、地下鉄のドアに映った自分の顔だった。しかもそう思うのも、もう三度目だ。この一週間で。  俺、小島健太。二十五歳。順当にいったら寿命の残りはまだあるはず。なのになんでそんなに何度も自分の顔に死相を見ているのか。それはひとことで言って仕事がクソだからだ。     新卒でどうにか潜り込んだベンチャー系IT企業の労働環境は、劣悪だった。パワハラモラハラ当たり前。定時退社、なにそれ美味しいの? 今日は電車に乗れているだけまだいい。いつもは終電を大幅に超え、タクシーで帰る。もちろんタクシー代は出ない。  そんなに文句があるなら、転職すればいいって?  履歴書をざっと見て、出身大学を確認される。そして『へえ……どこ?』みたいな顔をされる。ときには薄ら笑いを浮かべながら。 そんなに有名大学出しか欲しくないなら、書類選考の時点で弾いとけよ。こっちはここまで来る交通費だってかかってんだよ。そんな言葉をぐっと飲みこんで、薄っぺらい笑顔を張り付ける。笑顔なのに、大事ななにかがごりごり削られていくようなあの感覚。  控えめに言って地獄。  今の地獄に堪えるのもしんどいが、もう一度別の地獄をやり直すのもしんどいのだ。  だいたい、やり直せるものなら生まれる前からだ。  俺が生まれついたのは、中の下くらいの一般家庭だった。工場勤務の父親と、スーパーのレジ打ちをする母。ライフラインが止まったことはないけれど、それだけ。日々の生活だけでかつかつで、教育にまで金をかける余裕はなかった。  いい仕事につくにはいい大学出の肩書がいる。いい大学に入るには、太い実家がいる。  つまり人生がクソかクソじゃないかは、おぎゃあと生まれたその瞬間に決まってしまう。だったら無駄なあがきはしないほうがいい。俺はこの死人顔のまま生きていく運命。いや、生きるというより、人生をただ無力に消費していく運命。 「なるべく早く終わってくんねえかな」と思いながら。  自宅の最寄り駅にたどり着き、改札をくぐったときだった。  長い髪をした女性が、手を振っている。ぱっとそこだけ明るくなったような笑顔だ。 「え」と思いつつ反射で片手を挙げると、彼女はこちらに向かって駆け寄ってきた。長い髪と、ラフに羽織ったカーディガンが揺れ― 「おかえり!」 彼女は改札から出て来た男の腕に飛びついた。 「今日も遅くまでご苦労様~」 「迎えになんてこなくて良かったのに……逆に危ないだろ」  男の声には、言葉とは裏腹に喜びがにじんでいる。俺は彼女に向かってちょっと挙げてしまった手を、そのまま後頭部に持っていった。「ちょっと頭をかきたかっただけですよ」というていに見えるように。  帰宅した俺は、おにぎりの包みをぺりぺりと剥がす。ハワイアンパイナップル炒飯味。さっきのこっぱずかしい状況から逃げるように入ったコンビニに、かろうじて残っていたものだ。パイナップルに生まれついたなら、おとなしくフルーツ盛りの器ポジションで満足していればいいのに、無駄にチャレンジするから終電後まで売れ残ったりする。  生まれ持った以上のものに挑むなんて、無駄なのだ。  俺だって、選択肢があったなら、半生に焼いたたらこのおにぎりとか、そういうものが食べたかった。  今頃、さっきの男は彼女が作った温かい夕食を摂っているんだろうか。  同じ電車に乗っていたということは、あの男もこの時間まで仕事をしていたということだろう。が、帰ってくればあんなふうに迎えてくれる彼女がいるのなら、俺の百万倍はマシだ。休日には遊園地や流行りのスポットでデートできる。そう思えば、つらい平日だって乗り切れるだろう。  そうだよ。太い実家に生まれつかなかったせいで負けが確定している人生でも、せめて可愛い彼女がいたなら。  少しはこのクソみたいな人生も慰められるんじゃないだろうか。  少し考えて、俺はテーブルに放り出してあったスマホを手に取った。検索窓に〈マッチングアプリ おすすめ〉と入力してみる。  こういうものがあるのは知っていたが、今まで二の足を踏んでいた。でも今日の一件で心が折れた。毎日残業で、普通にしていたら出会いの機会などない。彼女が欲しい。彼女が欲しい。あんなふうに帰りを待ってくれる彼女が。 予想以上にいくつも候補が上がってくる。この世にこんなに出会いを求めている女性がいるなら、俺にだってチャンスはありそうだ。わくわくとスクロールしているうち、ひときわ目立つ見出しに目が留まった。 〈高学歴・高収入ハイスペ男子と出会うなら、ここ!〉  高揚した気分が、お祭り翌日の風船みたいにみるみるしぼんでいく。  結局、そこか。  高学歴高収入になるにはまず太い実家が要る。ここでも前世からやり直せ、だ。 「でもこんなの別に厳密に審査するわけでもないよな。いっそのこと適当にでっちあげて入力……」  俺は、スマホを再びテーブルの上に放った。 「やめた。あほくさ」  そんなことをして、あとあと面倒が起きたら困る。太い実家に生まれつかなかった時点で、人生の勝敗なんて決まっている。ハワイアンパイナップル炒飯に懲りたばかりだというのに、無駄にあがこうとした俺がばかだったのだ。  おにぎりの残りをむりやり飲み込んで、風呂を入れるためにのそりと起き上がる。彼女いない歴イコール年齢の非モテ男でも、せめて風呂には入らなければ、最低限の人権も失う。 「あー……帰ってきたら部屋が片づいてて、風呂も張られてたらいいのにな……」  ぼやきながら狭いユニットバスに向かった足元が、ずるりと滑った。 「ってえ……!」  腰をさすりながら辺りを見回す。マンションやら保険やらのDMやチラシが散らばっていた。郵便受けから取り出して、その辺に放置しているうちにいつしか山になっていたものだ。どうやらうっかりこれを踏んで滑ったらしい。  宝くじにもいい会社にも当たったことがないのに、いつもこうして不幸だけは大盛り増量サービスを引き当てる。 「マンションなんか買うわけないだろ。入れてくんなよこんなもん!」  乱暴にかき集めてごみ箱に突っ込んだそのとき、目の端になにかがひっかかった気がした。  顔を戻すと、広告の中に一枚だけはがきが紛れ込んでいた。もうとっくに許容量を超えているごみ箱の中から引っ張り出す。それは、高校の同窓会のお知らせだった。  同窓会。その響きだけで自分の眉間に皺が刻まれるのを感じる。  高校時代が一番楽しいなんていうけれど、そんなふうに思えるのは一部のカースト上位だけだろう。それに、行けば当然近況の話になる。自慢できるような職についているわけでもない俺は、案内はがきなんて届くと同時に捨てていた。  今回に限って目に留まったのは、いつもとちょっと様子が違ったからだ。  はがきには、ピンクのペンで〈絶対来てね♡〉と記されていた。  その下に書き添えられた名は〈彩香〉。  その名前を目にした瞬間、教室の雑踏と、彼女の揺れるポニーテールがよみがえった。  彩香は、俺が暗黒の高校時代に唯一話をしたことがある女子だ。  チアの部長を務めて、大会で賞をもらっていた。クラスのアイドル的存在。当然憧れている男子も多かった。もちろん俺もそのひとりだ。  どうやら今回彼女が幹事を務めているようだった。  俺はもう一度はがきをまじまじと見た。一日中コードを書いていたせいでかすみがちな目で、穴が開くほど見た。間違いない。 「この文字、手書きだ……」  幹事になったからといって、いちいち添えるだろうか、今時手書きのメッセージを。しかも〈♡〉付きで。  俺は、教室に響く彼女のはつらつとした声を思い出していた。
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