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けしてのぞいてはいけません
そんなわけで、その日から俺とりおの共同生活が始まった。
仕事は相変わらずクソだったが、終電で帰ってもりおは寝ずに待ってくれていた。しかも温かな夕食つきだ。深夜であることを考慮して、野菜や魚中心のメニューにしてくれていることは、料理に詳しくない俺にもわかった。
朝は朝で、りおが食事を作ってくれる気配で目覚める。起き抜けの味噌汁は、全身が目覚めていくようで最高だ。たらこの火の通し加減は、常に俺の好きな半生。
りおも可愛い茶碗で嬉しそうに食事をしている。
誰かが幸せそうにしている様子を見ていると、こっちまで幸せな気分になるのだということを、俺は生まれて初めて知った。
瞬く間に、一週間が過ぎた。
朝幸せな気分になってから出社すると、クソ営業が取ってきたクソ仕事のクソ納期にも鼻歌交じりに応じられる。おかげさまで今週も土曜出社だが、そんなものもなんのその。仕事をこなしていると、昼休みには『晩ごはん、食べたいものありますか?』とりおからLINEが届く。ふだんの会話と連絡用に、ふたりだけのLINEグループを作ったのだ。そんなものを作るのも、もちろん初めてだった。
スマホなんて、今までは休日でも容赦なく呼び出し音が鳴る恐怖の薄い板でしかなかった。りおとのやりとりが蓄積されていく今は、なんだか尊いもののように思える。
明日は休みだから、今日は久しぶりに本物のビールを買って帰ってりおと一杯やろうかな―そんなことを考えながらくり返し画面を読み直していると、
「昼休み終わってるぞ。さっさと仕事しろ」
と怒声が飛んできた。クソ上司だ。
「終わってるって……」
時計を見る。十三時を一分過ぎたところだ。一分。そもそも本来なら休みの土曜に出社させられてるわけで。
しかしそれを言い返しても無駄な議論になることは目に見えている。俺は「さーせん」と曖昧な笑みで返した。
「へらへらあほ面下げてんなよ。おまえの代わりはいくらでもいるんだからな」
久し振りにタクシーを使って帰った。ドアを開けると、狭い玄関先にりおが飛び出して来る。
「起きてたの?」
スマホを取り出そうとすると、上司が睨みつけてくるから、今日は遅くなると連絡も出来なかったのだ。
「ごめん、仕事急に人の分まで振られちゃって……クソ、絶対嫌がらせだ」
りおが『?』という顔で首をかしげる。
「俺が君からのLINE見て楽しそうにしてるから、それが面白くなかったんだと思う。いるよな。人が楽しそうにしてるのが気に食わないって奴」
本来なら、一緒に仕事をする仲間が上機嫌というのは、いいことだろう。なのに嫌味を言われた上、仕事を増やされるってどういうことなんだ。他の同僚たちにも上司の発言は聞こえていたはずなのに、息を殺しているだけだった。自分にとばっちりがくるのを恐れているのだ。
そんなのはおかしい、と声を上げたところでなにも変わらない。俺のいる会社はそんなところなのだ。そんなところでしか仕事にありつけなかったのは、俺の学歴がしょぼいから。学歴がしょぼいのは、しょぼい家に生まれついたから。
ここのところ忘れていたそんな思いが、じくじくと頭の中を焼く。
「もう寝る」
りおと話すことさえ億劫だ。俺はそれだけ短く告げると、早々に布団に潜り込んだ。クソクソクソ。太い実家に生まれつきさえすれば、こんな人生じゃなくて良かったのに。
久し振りに昼過ぎまで寝てしまった。どんなに長く眠っても、ふて寝はすっきりしないのはなぜだろう。
腹をかきながら冷蔵庫を開けると、昨夜の料理がラップをかけたまま収まっていた。罪悪感がこみ上げてくる。
「えっと、昨夜は、ごめん」
りおはふるふるとかぶりを振る。こういうときどうしたらいいかわからず黙っていると、りおはスマホを取り出した。LINEの着信音がして、俺は枕元に放り出してあったスマホを手に取る。
『今日はお休みですよね? 行きたいところがあるんですけど、付き合ってもらえませんか?』
りおの行きたいところとは、遊園地だった。とてもそんな気分じゃなかったのだが、昨夜無愛想にあしらってしまった負い目がある。俺は促されるまま電車に乗り、遊園地のチケットを買った。
遊園地なんて、小学校の遠足以来だ。
意外にもりおは絶叫マシーンの類が好きらしい。今さら逃げ出すこともできず、龍の背中みたいなジェットコースターに一緒に乗り込む。
「ぎゃー!」
――お手本みたいな悲鳴を上げてしまった。
りおに目をやれば、口元で両手を合わせ、楽しそうに笑っている。マジか。
ジェットコースターは意地悪く一番高いところで止まったり、急降下したり、トルネードしたりする。やっと地上に降り立ったとき、俺は生まれたての子鹿みたいにぷるぷるしていた。
りおはまったく平気な様子で、次はあれ! とばかりに指さして走っていく。
「いやちょっと待って……」
俺はよたよたあとを追う。そのとき、すれ違った女子高生らしきふたり連れが「今の人スタイルいい~」「ほんとだ。モデルさんかな?」と囁くのが聞こえた。もちろん俺のことではない。彼女たちの視線が追っているのは、りおだ。
可愛い系のワンピースを着ていることが多いから忘れがちだが、りおは身長が俺とおなじくらいある。同性から見ても綺麗に見えるのだろう。そんな子が、俺と一緒に暮らして、こうしてデートしてくれる。
クソみたいな日々に忙殺されて、すっかり忘れていた。いつか彼女ができたら、こんなふうに遊園地でデートしたいと思っていたことを。
なんだか疲れが吹っ飛ぶような気がした。
もっともそんなりおが次に乗りたがったのは地上百メートルから落下するマシーンで、俺はまた情けない悲鳴を上げることになったのだが。
一通り絶叫マシーンに乗り倒して、最後にりおが向かったのは、観覧車だった。俺はようやく人心地ついて、そして気がついた。
今朝までの鬱々とした気分が、すっかり消え去っている。
腹の底から絶叫しまくったせいかもしれない。もしかしてりおは、これを見越していたんだろうか?
「あのさ」
「やーだー!」
隣で佇む綺麗な横顔に問いかけた言葉を、子供の声がさえぎった。
何事かと思って振り返る。五歳くらいの女の子が、お母さんの上着の裾を掴み、いやいやと体をくねらせていた。
「あっちじゃないとやなのー」
どうやら彼女は自分の好きな模様のゴンドラに乗りたくて泣いているらしい。この遊園地のゴンドラは、無地と水玉が一つ置きになっていた。並んだ順にどんどん案内されるから、この順番だと彼女は水玉のゴンドラに乗れない。おかあさんは「どれでも一緒でしょ!」と半ばキレそうだ。
俺は「あの」と係員さんに申し出ていた。
「この子を先にできますか。俺たちは次のでいいので」
幸い順番を入れ替えることは特に問題がなかったようで、俺たちは後ろの母子に水玉ゴンドラを譲った。女の子は飛び上がって喜び、お母さんが「すみません」と何度も頭を下げる。俺たちも慌ただしく次にやってきた無地のゴンドラに乗り込んだ。
乗り込んでから、りおが俺の顔をじっと見つめているのに気がつく。もしや。
「水玉のやつ、乗りたかった!?」
りおは笑ってかぶりを振った。LINEが飛んでくる。
『やさしい』
「いや、あそこで泣かれても面倒だし。どうせ大人になったらクソみたいな社会に出なきゃならないんだから、子供の頃くらい好きにさせてやったらいいし、……ああいうのって、子供にとっては〈どれでも一緒〉じゃないじゃん?」
子供の頃、あの言葉でどれだけのものを我慢させられてきたか、思い出してしまっただけだ。
りおは俺の言葉にそれ以上なにも言わず、ただ、穏やかにほほ笑んだ。
またLINEが飛んでくる。
『お茶碗』
「ちゃわん??」
『嬉しかったんです。ピンクの。私が見てたやつ、選んでくれたんですよね?』
「いや、あれは」
可愛い彼女と同棲するならこんなのを使って欲しいという、俺の妄想を押し付けただけだったのだが。
『健太さんはやさしいです。やさしい上に行動に移せるって、凄いことです。普通は、私みたいなのを拾ってくれたりしないです』
そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。
「……ただのクソブラック企業勤めの、クソ底辺社畜だけどね」
りおが苦笑してかぶりを振ると、それに合わせて髪が揺れる。
『自分でわかってないだけですよ』
俺が惰眠を貪っていたせいで出かけたのが午後になったから、日はもう傾きかけている。空いっぱいに広がる夕日がりおの柔らかな茶色の髪を透かして、はっとするほど綺麗だった。
帰宅すると、りおが「家賃を払いたい」と言い出した。
『もう一週間もお世話になってるので』
「いやだって家事やってもらってるし。むしろこっちが手間賃払わなきゃいけないくらいだよ」
俺が言うと、りおはきゅっと口元を引き結び、眉間に皺を刻んで軽く睨むようにこっちを見てくる。なかなか頑固だ。しかしそんな顔も可愛いな、としか俺には思えない。
「えっと、でも、払うって言っても、仕事は?」
俺の知る限り、りおが仕事に行っている気配はない。元々なにか訳ありなのは承知で居候させているので、そのこと自体はどうでもいいのだが、無理はさせたくなかった。
考えてみれば俺は、りおのことをほとんどなにも知らない。
りおからのLINEが届く。
『あの、私、動画配信をやってるので。収入はそれで、ちょっとあるんです』
「配信? ユーチューバーとか?」
りおはこくんと頷く。できれば教えたくなかった、という雰囲気だ。
「全然知らなかった……」
なんというか、りおの楚々とした感じと、ユーチューバーという今風の響きが、俺の中でまったくかみ合わない。
『健太さんがお仕事に行ってる間に撮影してるから』
「へえ……。どんな内容なの?」
『メイク動画、です』
メイク動画。化粧のテクニックということだろうか。そういえばアイドルが化粧品の紹介動画を投稿して大人気とかなんとか、そんな話を聞いたことがあるような、ないような。
「そっか。たしかに、綺麗だもんな」
りおの顔をまじまじと見つめると、りおは照れたように俯いてしまった。可愛い。
りおは、俯いたままLINEを入力した。
『払わせてもらえたほうが、私もお世話になりやすいです』
確かに、全額世話になるよりは、いくらか出したほうが気兼ねなく居候しやすいということはあるだろう。それにもう、りおのいない生活なんて考えられない。俺にとってりおは、生まれるところからやり直さなければいけないと思っていたクソな人生の中で、今や唯一の癒しだ。
「わかった。じゃあ、三分の一だけ出してもらおうかな」
告げると、りおはほっとしたように微笑んで頷いた。またまた可愛い。
「それにしても、動画で稼げるって凄いな。どんなふうに撮ってるの?」
動画配信で一攫千金を目論んでも、全然儲からない奴もいると聞く。そんな気持ちから訊ねれば、りおは顔の前で両手を振り、『恥ずかしいから、内緒です』と送ってきた。配信をどこで観られるのかも、頑として教えてくれない。
念押しのLINEが届く。
『撮ってるとこは、見ないでくださいね。絶対、絶対ですよ!』
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