君の名は

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君の名は

「行ってきます」  月曜の朝、俺はりおにそう告げて家を出た。もちろん今日もりおは俺より先に起き、朝食を作ってくれた。  昨日遊園地で発散したのが良かったんだろう。気分はすっきりしている。それになにより、今日もりおが一日待っていてくれる。そう考えると、自然と頬が緩んだ。  足取りも軽く駅に向かって歩き出したとき、ふと誰かに見られているような気がした。 「ん?」  辺りを見回す。  アパートに面した通りの反対側に、高級車が停まっていた。  運転席にいるのは、細いフレームの眼鏡をかけた、身なりのいい男だった。俺より少し年上の、二十代後半から三十代前半だろうか。窓から見える程度でも、着ているスーツが上等なのがわかった。男は険しい顔でどこかを睨んでいたかと思うと、しばらくして車を発車させる。  あんなところで、なにを見てたんだ?  気になる。が、りおの作ってくれた朝食をぎりぎりまで食べていた俺も、もう急ぎ足で駅へ向かわないと、乗るべき電車に間に合わない。 「やっべ」  俺は足早にその場を離れた。   俺がなんだか爽やかな顔で出社したのが気に食わなかったんだろう。上司は早速仕事を山のように振ってきた。  しかし、今後もしばらくりおが一緒にいてくれることになった今の俺は、無敵だ。上司を無駄に刺激しないよう、鼻歌は心の中だけにして、着々と仕事を片付けていく。  それにしても、りおが動画配信なんて、何度考えても意外だ。  というか、声が出せないのに配信なんて可能なんだろうか。  あとからテロップを入れればそれも可能か。むしろテロップにしたほうが聞き逃しがなくていいかもしれない。さすがりお。自分の手柄でもないのに、俺はふふんと上機嫌になってしまう。  そんな俺を上司が忌々しそうに睨みつけてくる。おっといけない。俺は再び仕事に打ち込むふりをする。  上司の視線は、今朝見た男を思い出させた。  あの男、あんなところでなにを睨んでいたんだろう。そう、あれは見るというよりは睨むという感じだった。  男の視線の先は、俺の背後。つまり俺が住んでいるアパートだ。俺に心当たりはない。他の住人だって似たり寄ったりだろう。あのアパートであのクラスの男が用事がありそうといったら―調子よくキーボードを叩いていた俺の手が、ぴたりと止まる。  りお、か?  さっきまでいい気分だったのに、すうっと胃の底が冷えていく。  やっぱり、声が出ないのに配信なんて不自然じゃないか? もしかして、パパ活、とか。あるいはもっと――  いや、りおに限ってそんなことを。一瞬浮かんだ最低な思いを打ち消す。 が、俺はりおのなにを知っているというんだ?  この一週間、理想の彼女ができたみたいだと浮かれまくっていただけで、俺はりおの苗字さえ知らないのだ。 「父と母が同時に死にました!!」  気づいたらそう言い捨てて、会社を飛び出していた。  もちろんそんな理屈が通るとは思っていない。追いかけてくる怒声は全力で無視する。飛び乗ったエレベーターの〈閉まる〉ボタンを高速連打して、むりやりぶっちぎってきた。  そして帰り着いたアパート。俺はドアの前で呼吸を整えた。音がしないよう、細心の注意を払って鍵を刺し込み、ゆっくりと回す。  そっとドアを開けると、中から話し声が聞こえて来た。――男の。  ざあっと、全身の血が逆流するような音がする。  やっぱり、俺のいない間にりおは男を連れ込んでいたんだ。  俺はごくりと唾を飲み込むと、忍び足で部屋に上がる。  男の声が、よりはっきりと耳に届いた。 「それではですね、今日もさっそく女装子メイクをしていきたいと思います。まずは質問の多かった〈髭の剃り跡がどうしても青く目立ってしまう問題〉について! りおのおすすめは、こちらのブランド。コンシーラーの三番。かなりオレンジっぽいやつなんですけど、これを、こうして、割と大胆にね、ひろーく塗っていきまーす」  ん? 「剃り跡見られるの恥ずかしいけど、今日はね、こうすれば誰でもできるってお伝えするために、頑張って全部見せてまーす」  んんんんん?  俺の耳は、今いったいなにを受信したんだろう。 『りおです』 『女装子メイク』 『髭の剃り跡』  りおが。  女装子で。  髭の剃り跡が、青い―?  くらっと眩暈がして、俺はキッチンに倒れ込んだ。食器かごに入っていたグラス類がシンクに落ちて、がしゃんと音を立てる。  しまったと思ったときには、りおがこちらを振り返っていた。  お互い幽霊を見たような顔で、見つめ合う。  メイクしやすいようにだろう。前髪をヘアバンドで上げたりおの顔。一度認識してしまうと、それはたしかに男の顔だった。しかも、俺はその顔を知っていた。遠い記憶がよみがえる。 「……橘、諒?」  それは俺が高校のとき一番嫌いだったクラスメイト。俺の机をぐいぐい押してきては謝りもしないスクールカーストの頂点にいた男、橘諒だった。
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