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新しい世界
太い実家を持ち、教師にも特別扱いされていた諒。学年で一番モテていた男と、目の前の光景が結びつかない。
彼女――彼?――のかたわらには、キャリーケースが広げられていた。
りおはいつも「スペースとったら悪いから」と自分の荷物をその中に全部まとめていた。夜は俺より遅く寝て、朝は俺より早く起きている。だから俺は、そのキャリーケースが開いているところを見たこともなかった。
今、全開にされたその中には、沢山のメイク道具と、ウィッグが詰められていた。それだけじゃない。髭剃りムースに、男物のパンツ。
夕日の観覧車で見た、りおの天使のような笑み。記憶の中のそれが、ノイズにかき消されていく。
「小島、これはさ――」
俺の名を呼ぶりおの声。
明らかな男の声に呆然としていると、背後で玄関チャイムが鳴った。
ピンポーン。
張り詰めた空気の中、間抜けな音が響く。なんだ? 宅配か? 悪いけど今はそんなものに対応している場合じゃない。
無視していると、今度はチャイムが連打された。
ピンポンピンポンピンポン――
ちょっと狂気を感じ始めたとき、がちゃりとドアノブが回された。さっき極力音を経てないようにと思ったから、鍵をかけていない。
乱暴にドアが押し開けられる。現れたのは、高級車に乗っていたあの男だった。
男はずかずかと部屋の中に上がり込んでくる。俺のことなど眼中にない。吊り上がった目でとらえているのは、ただ一点のみ。
「やっと見つけたぞ、諒!」
諒、とこの男はりおを呼んだ。可愛いレースの服を着て、半分化粧をしている諒を。
諒は力なく呟いた。
「兄さん……どうしてここが」
「探偵に探させた」
諒の兄貴だという男は、忌々しげにそう吐き出した。
「またそんな格好をして――この、異常者が」
唾棄する、というのはこういうことを言うんだろうか。身内を窘める、なんて生易しいものじゃない。言葉からにじむ、この一方的に尖った感情を表すのに一番しっくりくるものは――蔑み、だ。
突然やってきた悪意の塊に圧倒されて、俺は動けない。
兄貴は諒の返答を待たずに顎をしゃくる。まるで犬猫に命じるみたいに。
「さっさと着替えろ。病院に戻るぞ」
「……いやだ」
「おまえに選択権はない。だいたい、おまえを探せと父さんに言われて、俺の仕事がどれだけ滞ったと思ってる」
兄貴は、諒の青ざめた顔色にもまったく興味がない様子だ。スマホを取り出し、どこかに電話をかけ始める。
「私です。はい、いました。回収してまた叔父さんの病院に」
病院。回収。そんな言葉を顔色一つ変えずに発して、兄貴はスマホをしまう。
「さっさとしろ。ったく、だから薬でも打って拘束しとけと俺は言ったんだ」
薬とか拘束だとか、普通そんな言葉を口にするだろうか。こんなに、なんでもないことのように、あっさりと?
「俺が女装をするのは、頭がおかしいからじゃない」
諒は、呻くように絞り出した。
「……俺は、父さんや兄さんみたいに優秀じゃないから、橘家の男として完璧を求められるのがいつでもしんどかった。勉強もスポーツも誰より優れてなくちゃいけなくて、それでいて一番になっても『橘家の男なら、このくらい当たり前』って言われる。高校受験も、俺は自分の希望を書いて出したのに、いつの間にか先生に連絡がいって、お父さんや橘の人間の出身校に変えられてたよね」
諒の口元から、乾いた笑みが微かに漏れた。りおのときには考えられない、皮肉な響きを帯びていた。
「だから俺、試験の前の晩水風呂に入った。わざと風邪をひいて試験会場でぶっ倒れる作戦は成功した。あのとき、父さんも兄さんも開口一番言ったよね。『回答は全部したんだろうな』って。……結局俺の体調の心配は、誰もしなかった」
言われてみれば、底辺の俺と諒が同じ高校に通っていたことがそもそもおかしかったのだ。当時は、妬むばかりでそのことに気がついていなかった。
「大学だって、自分でバイトして学費を賄って、自分の好きなところに行くつもりだった。でも、今度こそ橘の人間が代々出てるところにしろって、受かってたのに無理やり一浪させられたよね。それからはほぼ軟禁状態で勉強させられて。卒業したら兄貴の補佐について。女装がバレたら、叔父さんの病院に入れられて……俺の意志なんか、なんにも関係ないんだって、よくわかった」
諒は自分の着たワンピースの胸元にそっと触れた。口元に柔らかい笑みが戻る。
「女装は俺の救いなんだ。初めて女装したとき、子供の頃からずっと頭の上にのしかかっていた重たいものが、すっと軽くなった気がした。橘諒じゃなくて、りおになったときだけ、俺はちゃんと〈俺〉で、自由でいられた……!」
面をあげて兄貴を見返すりおの目元に、きらりと涙が光る。
「……俺はもう、戻らない。病院にも、橘の家にも」
しん、と部屋の中が静まりかえる。アパートの壁は薄くて、いつもなら通りを行く車の音も丸聞こえなのに。
それを破ったのは、兄貴だった。心底呆れたような声色で。
「なに不自由なく暮らさせてもらってるのに、くだらない趣味一つ咎められたくらいで、なぜそんなに反抗するんだ?」
――嘘だろう?
こいつは今、実の弟の訴えを聞いたはずだ。なのになにも伝わっていない。女装は趣味じゃない。唯一魂を解放できる手段なんだってことが。
俺は、不意にりおを拾った夜のことを思い出していた。暗がりで頼りなく光るスマホの画面に記されていた『行く場所はないんです』の文字。
りおは俺を「やさしい」と言ってくれた。でも俺が子供にやさしくできたのは、りおが俺にやさしい日々をくれたからだ。腐って、なにをやっても無駄だってすべて諦めていた俺に――
「おい、あんた」
「あ?」
兄貴は、そこに至ってやっと俺の存在に気がついたとでもように、胡乱げにこちらを見る。
俺は自分を奮い立たせるように、こぶしを握り締めた。
「りおは……そいつはさ、そんなかっこしてるけど……でも、毎日にこにこして、ご飯作ってくれて、たらこの半生具合とか、もう、最高で」
「なにを言ってるんだ? おまえは」
兄貴は怪訝そうに眉を顰める。人をあからさまに蔑むことを微塵も悪だと思っていないそんな様子に一瞬怯む。諒も「小島? 話がズレて……」と困惑顔だ。
高校時代の諒は、いつもクラスの中心にいた。女子にだってモテまくりで、それこそ彩香と噂になったことだってあったはずだ。先生たちにも一目置かれて、楽しそうにしていた。
でもそれは、教室でしか笑っていられなかったからじゃないのか――
俺は、兄貴の顔を正面から見据えた。
「くだらない趣味だと思うなら、ほっといてやればいいだろ。」
「こんな恥ずかしい身内を野放しにしておけるか。しかも自分から見世物になっているんだぞ。正気の沙汰じゃない。こいつも、こいつを見て喜んでいる連中も、みんな普通じゃない。変態だ。気が狂ってる」
犯罪者でも相手にするみたいな言葉だ。同じ境遇に生まれついて、どうしてこうも諒と兄貴は違うのか。
ずっと、太い家に生まれついた奴が羨ましかった。でも、大事なのはそこじゃないんじゃないか。
大事なのは、どう生まれつくかじゃない。どう生きるかだ。
りおが諒であったことの驚きや、騙された、という気持ちはこのとき完全に消え失せていた。
「……なにが普通じゃない、だ。ボクの知らないことでボク以外が楽しそうにしてるのが気に食わないんだって、そう言えよ」
「――いい歳して世間やパパの名前借りなきゃ文句も言えないあんたより、全部さらけ出して生きてるこいつのほうが、よっぽど立派に生きてんだよ!!!!」
「帰れ!!!!!」
俺は兄貴を玄関まで追い立てた。なんだかごちゃごちゃと捨て台詞を吐いていたような気もするが、きっと下々の者に言い返されることに慣れていないんだろう。全部無視してドアに鍵をかける。
闖入者が去って、静けさが戻る。残ったのは俺と――半分りおの諒。
なにをどう言ったらいいのか考えあぐねていると、
「あ」
諒が緊張感のない声でそう漏らした。なぜか申し訳なさそうな顔だ。
「さっきの……生配信だったから、配信されちゃってる」
「え!?」
「いや、まあ大丈夫? だけど」
青ざめる俺に、諒は配信画面を見せてくる。そこには無数のコメントがずらりと並んでいた。
『りおちゃんおにーちゃんいたのか』
『失礼な奴だったな』
『どうも、変態です』
『てか、男ダレ』
『彼氏? サイアク。課金返せよ』
サイアク、の文字に心臓がきゅっとする。
だけど、次々寄せられるコメントで、それはまたたくまに流されていった。
『でもかっけーな』
『マジ漢と書いてオトコ』
『うん、かっこよかった』
『謎の男さんかっけー』
『かっけー』
『かっけー』
『かっけー』……
無数に紡がれていく『かっけー』の文字。
「かっこいい、てさ」
「いや、俺なんか……全然……」
高校時代の俺は、諒のことを上辺だけで判断して嫌っていた。さっきは自分のことを棚に上げ、怒鳴り散らしてしまったが、あの兄貴となにが違うというんだろう。
アドレナリンが引いていくと、急に不安が押し寄せてきた。
「……悪い。事情良く知らないのに、出しゃばった。本当はちょっと帰りたいとか、あった?」
諒は微かに苦笑して、かぶりを振る。
「いつかはっきりさせるつもりだったから、ちょうど良かったよ」
それから不意に、ちょっと意地悪な、それでいて愉快そうな顔をする。
「高校のとき、おまえ嫌いだっただろ、俺のこと」
なぜ今そんなことをと思いつつ、とっさに答えられない。諒はスマホを所在なげにいじりながら、ぼそりと呟いた。
「俺も嫌いだった。全部、ニセモノだったから」
再び上げた顔は、やけに晴れ晴れしい。
「あの頃からこっそり可愛いもの持ったり、軽い女装したりはしてたんだ。社会人になったら、動画配信が流行るようになってさ。俺もやってみるかってなって。そしたら結構ウケて、応援してくれる人がいっぱいいて、どんどん頻度があがって――それが、家族にバレた」
家族は諒のそれを一時の気の迷いだと決めてかかった。「しばらく仕事を休んで療養すれば、収まるだろう」と、表向きは心配するふりをして、親戚の経営する病院に入院させた。その実監禁だ。
「同窓会の日、ぶちこまれてた病院から逃げ出したんだ。それで、いっそあのかっこのまま参加してやろうって思って、入り口まで行った。……だけど、いざとなったら怖くなって」
それであそこでうずくまっていたのか。
「結局、俺自身も俺のことまだ完全には好きになれてなくて。……でもおまえがさっき、立派に生きてるって、言ってくれたから」
救われた、と小さく聞こえた気がした。
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