第1章 ようこそキボウ部へ(1)

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第1章 ようこそキボウ部へ(1)

 真夏の青空よりも青い、と思った。  色合いは逆だけれど、突き抜ける青空に走る一筋の飛行機雲が脳裏をよぎった。  それは――純白のキャンバスに引かれた青いライン。  このままじゃいけないとわかってはいたが、俺はどうしても目を離せずにいた。  ――それがまずかった。 「キミには何色に見える?」  彼女は不意にこちらを振り返ってふわり微笑んだ。  高校二年に進学して十日ほど過ぎた放課後。昇降口を出ると小雨が舞っていた。  学校最寄りの電停までは走れば五分もかからないから傘がなくても問題はない。  そうして走り出そうとした俺の目に留まったのは、昇降口のちょっと先で雨に髪を濡らしながら空を見上げる一人の女子生徒。目が離せなかった。  小雨であってもずっと外にいれば服だって当然濡れるのに、凛とたたずむ彼女の背中に俺の目は釘付けになっていた。  この日は春先にしては暖かったからなのか、ブレザーは着ていない。  真っ白なシャツはしとしと降り続く雨に濡れて、そして透けていて――俺の瞳には青いブラだけが映っていた。 「ねえ、聞こえたでしょ?」  冷静に状況を確認していると彼女はずかずかとこちらへ歩み寄ってきた。  ……まずい。  新学期早々、女の子のブラを凝視していただなんて話が広まるとただでさえ少ない友達がさらに減ってしまう。  いちおう言っておくが、少ない、だ。  一人で帰ろうとしていたからといって友達がいないわけではない。ただ家でやることがいろいろとあるからさっさと帰ろうとしていただけだ。 「どうなの?」  沈思黙考する俺の目の前。彼女は首を傾げて赤みがかったミディアムヘアを揺らす。  香水なのか、甘い匂いが俺の鼻孔に届いてドキッとするが、気を取られている場合ではない。  ここは――とぼけるしかない。 「なんの話だ?」 「だから何色に見えるのって訊いたんだけど」 「……そんなの言えるわけないだろ」 「なんで? 別に難しいことを訊いてるわけじゃないでしょ」 「思春期の男には難しいんだよ」 「はあ? 意味わかんない……じゃあ簡単なことから訊くよ。キミの名前は?」 「……小野寺一真だ」 「ふむ、小野寺一真くんか。どこかで顔は見たことあると思うんだけど、たしか二年だよね?」 「二組だ」 「やっぱり。わたしは水無瀬希。四組だから同じ文系だね」 「そっか。……じゃあまた」  うん、無難な会話だ。これでうまく誤魔化せたはずだ。軽く手でも上げて通り過ぎよう。 「ちょっ、ちょっと! なに帰ろうとしてんの?」  水無瀬はけれど、慌てて俺の前に立ちふさがった。 「質問には答えただろ」 「まだ話は始まったばかりだから」 「だからなんの話だよ?」 「だから見てたでしょ?」 「ぐっ……」  顔を背けようとする俺の視線に合わせるように立ちはだかる水無瀬。  どうやら簡単に誤魔化すことは許してくれないらしい。  ……しょうがない。 何色に見えるかと訊かれているだけでブラを見たことを責められているわけではなさそうだから、素直に答えてさっさと立ち去らせてもらおう。 「……青、だ」  俺がおずおずと答えると水無瀬は「ふーん」と人細い差し指をすっと通った鼻の頭に当てる。 「そっか……いいね」  俺の答えに満足したように頷くとにへらと笑う。  が、俺にはさっぱりわからない。  だから、適当に誤魔化してさっさと帰らせてもらおうと思っていたのに、つい訊ねてしまう。 「いいねってなんのことだ?」 「こんな雨降りの空を見て青く見えるなんて素敵だなってことだよ」 「空……?」  言われて見上げた空にはのっぺらとした雲が薄く広がっている。色と言われても灰色にしか見えない。  そんなことを考える俺に構わず水無瀬は胸の前で両手を合わせている。 「空にはね、いろんな色があふれてるんだよ。朝焼けと夕焼けの赤と朱色は違うし、晴れた日も青だけじゃなくって緑もあるし。土砂降りの空だって灰色だけじゃないしね」 「そうかもな……」  なんの話なのかやっぱりわからないけど、このまま話を合わせていればブラを見ていたことはとがめられずに済みそうだ。  曖昧に頷く俺に水無瀬は顔をほころばせて、「あっ」と手をたたく。 「わたしの部活に入ってよ。一真ならきっと気に入ってくれると思うんだ」 「……っ!」  突然女の子に下の名前で呼ばれるとドキッとするからやめてほしい。男からだって呼ばれることはないのに。 「二年になってから部活に入るつもりはない」  どぎまぎしつつも、話のペースにのまれるわけにはいかないと、俺は努めて冷静な声音で水無瀬に返す。 「でもこんな時間に一人寂しく帰ろうとするなんて、どうせ暇なんでしょ?」 「寂しくなんてないし!」  つい声を荒げてしまった俺に水無瀬は顔を引きつらせている。 「図星だったんだね。ごめんね?」 「謝られると余計みじめに感じるからやめろよ」 「ほんとにごめんね?」 「いいから! それに俺は俺で忙しいんだよ」 「なにか習い事でもしてるの?」 「習い事なんてしてない。でも俺はいつか大きなことを成し遂げる男なんだ。だからとにかくいろいろと忙しいんだ」 「大きなことって?」 「誰もが知ってるような人になるってことだよ」 「じゃあ具体的にはなにしてるの?」 「……小説書いたり、とか」 「へえ、今度読ませてくれる?」 「ダメだ」 「なんで?」 「なんでって完成してないからだ」 「胸張って言うことじゃないでしょ……。けど何万字ぐらいあるのか知らないけど小説ってたくさん書かなきゃいけないから時間がかかるんだよね。できてからでいいから読ませてよ?」 「それは無理だ」 「どうして?」 「途中で書くのをやめたからな。出だしはいいんだけど、どうしても途中で違うなって思って筆が止まるんだよ」  淡々と告げる俺に水無瀬はあきれ顔を向けてくる。 「書いてないんだったら暇でしょ? いまから部室に行くところだから一緒に来てよ」 「いや、小説は書いてないがほかにもいろいろやってて忙しいんだよ。だから悪いが無理だ」 「いちおう訊くけど、なにやってるの?」 「マンガ描いたりとか動画配信したりとか、とにかくいろいろやってるんだよ」 「それもうまくいってないんでしょ?」 「うっ……。だがなんにしたって物は試しって言うだろ? いろいろやって俺は自分の可能性を試してみたいんだよ」 「だったらわたしの部に入ってもいいじゃない。それこそ物は試しだよ? 自分の可能性を試すにしても誰かと一緒のほうがいいと思うよ」  まったくの正論に俺はなにも反論できない。  とにかく大きなことを成し遂げたいと思っていろんなことに手を出してはみたものの、どれもしっくりこなくて長続きしていない。  来年になるといよいよ大学受験が現実的になってくるし、どうしたって勉強に時間が取られるのは目に見えている。  その先にあるのは、学力に見合った大学に進んで、なんとなくで選んだ会社に入って、あとはどこにでもいるような会社員として一生を過ごす――そんな平凡な人生だ。  それがイヤだからなにかしたいってずっと思っているのに、うまくいかないことに内心焦りが募っているのを感じていた。  だが、 「俺は人の助けなんて借りない」  正直な気持ちを打ち明けて俺は今度こそ水無瀬の脇を通り過ぎる。  水無瀬はまだ「じゃあ人助けのつもりだと思ってよ。部員を増やさないとまずいらしいんだよ」とかなんとか言っている。 「悪いけど、俺には人助けをしている暇なんてない。それより、さっさと部室に行ったほうがいいぞ。服も濡れて透けてるし。早く拭かないと風邪ひくぞ」 「あっ、ほんとだ」  ようやく自分の置かれた状況に気付いたらしい。水無瀬が自分の服を確認しているのが横目に見えた。 「って……もしかして!」  突然大声を上げた水無瀬に俺は思わず振り返ってしまう。  それが間違いだった。
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