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第1章 ようこそキボウ部へ(5)
せっかくの週末だというのに早起きを強いられた俺は鹿児島市の南側にあるショッピングモールを訪れていた。
気象台で現地集合しようという俺の提案はすげなく水無瀬に却下されたせいだ。「寄り道をしたほうが部活っぽいでしょ」とのことだったが、そんな時間があるならもうちょっと寝ていたかった。
あくびをかみ殺しながらショッピングモール内の集合場所に行くと、「遅いよ」と水無瀬がジト目を向けながら手招きしてきた。
「知ってるか? 週末ってのは休むためにあるんだぞ。それに俺は遅刻してない。水無瀬と来栖が早く着きすぎただけだろ」
うんざりした顔を向けてやると水無瀬は「たはは」と頭の後ろをかく。
デニムのショートパンツを覆うぐらいだぼっとしたTシャツの肩をそっと整えながらこちらを見やる。
「新作が最近出たから楽しみにしてたんだよ」
この日の集合場所は香水ショップ、と呼ぶのかは知らないけど、とにかく香水がずらりと並べられたテナント。水無瀬は丸っこい小瓶を顔に近づけて鼻をくんくんさせている。
「うん、やっぱりいいね」
「違いがわかるのか?」
水無瀬のそばに立って、手近な瓶を手に取ってにおいをかいでみるが、いい匂いとしか感じない。瓶を変えても俺には違いはほとんどわからない。
強引に物事を進めようとする水無瀬に対して俺はちょっとがさつな女の子という印象を抱いていた。香水なんてバニラ系とか柑橘系みたいなおおざっぱな違いぐらいしか俺にはわからないし、水無瀬も似たようなものだろうと思っていたのだが、
「失礼だな。わたしは香水にはうるさいんだよ」
ぷくっと頬を膨らませる水無瀬。俺に文句を言いながらも熱心にいろんな瓶を眺めている。
「自分も香水の知識だけは希に勝てない。それに希が香水を見始めると何時間でも見るから大変だぞ」
来栖は店の隅のほうに置かれた椅子に座って文庫本をめくっていた。きっといつも水無瀬の買い物に付き合わされているんだろう。淡々と自分の時間を過ごしている。
「ふーん……って、来栖はなんで白衣を着てるんだよ? 気象台に行くのは部活の一環だとしても外で白衣を着るのは変だぞ」
実は部室で着るのもおかしいと思うのだが、その言葉はぐっとのみ込んだ。なんか俺には理解できないこだわりがあるのかもしれないし。
「なにを言っている。白衣は正装だぞ。だから自分はどこに行くときでもこの格好だ」
「どこに行くにもって近所のスーパーでもか?」
「もちろん、と言いたいところだが、自分はあまりそういう所には行かない。普段の買い物は祖父母の務めだからな」
「じいさん、ばあさんってことは来栖には両親はいないのか?」
訊いてからしまったと思った。知り合って数日の相手にする質問じゃなかった。
来栖はけれど変わらぬ様子で本のページをぺらりとめくる。
「両親はいない。この街のどこかで暮らしてはいるそうだがな」
「すまん、立ち入ったことだったな」
「気にするな。自分は気にしていないし」
「そっか……」
気まずくなって壁にかかった時計に目をやるが気象台に向かうにはまだ少し早い。
水無瀬はというと、いろんな香水を手にしては幸せそうな顔をしている。
「なんの本を読んでるんだ?」
「小説だ」
「文庫本だからたぶんそうだと思ってたけど、なんの本なのかって訊ねたつもりだったんだが」
沈黙を避けたくて振った話題に簡単に返されるとどうすればいいのかわからなくなるからやめてほしい。
そんな俺の願いが通じたのか、
「これから行く所の予習みたいなものだな」
来栖はようやく本を閉じてこちらに顔を向ける。
「予習っていうと、気象予報に関わる小説なのか?」
「いや、違う。気象台職員が出てくる物語だ。桜島が百年前に大噴火したことを知っているか?」
「学校の授業で聞いたような気がする」
首を傾げながら俺が答えると来栖はふむと頷いて続ける。
「当時の気象台――厳密にいうと測候所だが――は噴火の恐れはないと言ったんだ。そのせいで逃げ遅れた人がいて、それはその後もずっと気象台と住民との間にしこりとなって残った。と、いうような小説だ」
文庫本の表紙をそっと撫でる来栖。
「普段からそんな本を読んでるから気象予報士の資格を取ろうと思ったのか?」
「そんなことはない。本はなんでもいい。とにかく目に付いたものを読む。小説も読むし、ビジネス書でも技術書でも別になんでもいい」
「じゃあどうして気象予報士になったんだ? 簡単じゃないって水無瀬は言ってたけど」
「希が勉強を始めたから一緒にやったらすぐに合格したってだけだ。深い意味はない」
「じゃあどうして水無瀬は……」
「おっ、わたしの話をしてるな。いい話? それとも悪口?」
目当ての物を購入した水無瀬。ピンクの紙袋を提げて目の前に立っていた。
「どっちでもない。ただ水無瀬がどうして気象予報士なんて目指してるのかを訊いてただけだ」
「なんだ、つまんないな。せめてわたしのスリーサイズがどうとか訊いててくれたらまた脅す材料ができて良かったのに」
「やっぱり俺を脅して入部させたって自覚はあったんだな?」
「やばっ、これは言っちゃいけないやつだった」
こつんと拳を自分の頭に当てる水無瀬。あざとさを狙ったのかもしれないけど、人のことを脅すとか口にしたやつがそんなことをしてもかわいくなんてないからな。
「で、どうしてなんだ?」
「なんで気象予報士を目指すかってことだよね? そんなの決まってるでしょ――女子高生気象予報士って響きがかっこいいからだよ」
「勉強始めたのは小学生のころだったんじゃないのか?」
「うっ……。たしかに最初は女子小学生気象予報士を目指してたし、それが女子中学生予報士になって、いまに至るんだけど……でもわたしは気にしてない。なぜなら今度の試験では絶対に合格するからね」
胸に手を当てて落ちこんだかと思うとすぐに切り替えてがばっと胸を張る水無瀬。
「その自信がどこから来るのかわからないけど、まあいいんじゃないか」
「あっ、いまちょっとわたしのことバカにしたでしょ! 通るはずなんてないって思ったでしょ! 目にもの見せてあげるからね!」
「はいはい、楽しみにしとくよ。で、そろそろ行くか?」
俺が時計を指さすと、
「誤魔化そうったってそうはいかないよ」
鼻息荒く告げるが、ちょんちょんと来栖に袖を引かれて口をつぐむ。
「希、そろそろ出ないと約束の時間に間に合わなくなるぞ」
「えっ、ほんとだ。なんで教えてくれなかったの?」
「香水を眺めてるときの希に話しかけても無駄だと自分は知っているからな」
「ごめんごめん。その癖は直そうと思ってるんだけどね」
「まあそれは仕方ない。とにかく行くぞ」
「うんっ。一真もだらだらしてる暇はないよ」
「誰のせいでこんなことになったんですかね?」
「ん? なんか言った?」
「……いやなんも」
俺が嘆息すると、水無瀬は「じゃあ張り切って行こう!」と声を張り上げてほんとに俺のことを置いていきそうな勢いで店をあとにした。
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