ターミナルセンター

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ターミナルセンター

深夜零時を少し過ぎた頃、最終電車の一本前が出発のベルを鳴らし、もう時間が残されていないことに気付いた。 凍てつく寒さと、乾いた風が頬を撫でる二月の夜、僕とあなたは、閑静な駅のホームに、ぽつりと設置されている灰色のベンチに腰を下ろし、何も話さず、先程買った温かい缶珈琲を悴む手の中で転がしている。 確実に刻まれていく時間の中、僕はただ、自分の右肩に寄り掛かるあなたのことばかりを考えていた。 この時間が、永遠に続けさえすれば、僕には他に、何一つだって必要ないと思うほど、僕はあなたが愛しくてたまらない。それなのに、脳内で何度も反芻し、あなたへ告げることを決意したはずの言葉が、なかなか上手く喉元を通らずにいた。 心が、どうにも五月蠅く、僕に反抗することをやめてくれない。本当はこうしていたかっただけなんて、そんな甘い気持ちが、僕を飲み込んで離しはしなかった。 二人で食事をするのも、今夜が最後だったろう。あなたは相も変わらず僕よりもよく食べるし、お酒もたくさん呑んでいた。幸せそうに食事をする姿、やっぱり好きだと実感させられた。 僕の隣で、重たそうな瞼が落ちかけるあなたの顔を見ながら、僕は出逢った頃のことを思い出していた。 あの頃、まだ僕は喫煙者で、初めはそれを煙たがるあなたに対しても、おどけた仕草で誤魔化していたね。 けれど、あなたとの時間が増え、密度が高まり始めて、あなたへ特別な感情を抱いていることに気付いた僕は、まるでどっかの誰かの操り人形のように煙草をやめたんだ。 あなたは優しいから、内心とても嬉しかったはずなのに、私のせいでと、気を遣ってくれたね。本当は、それだけが禁煙の理由ではないから、心配はいらなかったんだよ。 プレゼントも沢山したな。一番記憶に新しいものは、僕より頭一つぶん小さなあなたに、可愛らしい靴を贈ったこと。どんな靴を履いても僕より背丈が高くなることはないからと、何故か得意げに話すあなたに、笑いを誘われたこと、一人の時にふと思い浮かべるよ。 貰った靴で何処へ行こうかと、二人、喫茶店で旅行誌を広げて夢を膨らませたね。そんな話を、楽しげに語るあなたとの日常が、なかなか色褪せることを知らないから、彩度の高い痛みを、こうして感じてしまっているんだ。 僕に対して、あなたは「どうして私たちは、恋人じゃないの?」なんて野暮な質問を投げることはなかったね。僕はそのことに甘えて、何一つ伝えず、全てを隠したままだった。 だけど、気付いてはいたんだ。あなたがずっと、僕からの言葉を待ってくれていたこと。 患う前の口約束を、あなたは覚えているかい。アルコールが身体に流れて、気が大きくなった僕が言った「一生、幸せにする」って言葉。 僕らは、説明し易い糸ですら繋がれていなかったはずなのに、僕は恥ずかしげもなく、あなたにそれを伝えたね。そのこと、僕はひとときだって、忘れたことはないよ。まさか、それがこんな足枷に、もしくは呪いのようになってしまうなんて、予想すらしていなかったけれど。 もっと慈しむ時間さえあれば、僕はあなたと。 まあ、そんな暇は、あるわけもないのだけど。 遠くの方で、夜空にぽっかりと浮かぶ月が、裸のホーム内から覗けた。柔らかな月明かりに見惚れていると、僕の袖口を緩く引っ張ったあなたが、僕に視線を向けないまま言葉を零した。 「ねえ、私、ずっとこうしていたいよ」 あなたの、後を引くような言い方に、時間が来てしまったことを自覚する。僕は、まだ温かさの残る缶珈琲のプルタブを弾き、一口、甘い珈琲を飲んだ。 「言わなきゃいけないことがあるんだ」 「なに?」 僕はあなたのことを、呼吸さえ忘れるほど、愛していた。 これが、終わりのない逃避行だったとしても、僕はあなたと生きていきたかった。 だけどね、それを伝える前に、エンドロールが霞んで見え始めてしまったんだ。 「僕、恋人が出来たんだ。だからもう、こうやって会うことは出来ない」 「なんでそんな嘘をつくの」 「嘘なんかじゃないよ、本当なんだ」 「だって、私のことを好きだって、ずっと言ってくれてたじゃない」 「ごめん」 僕が吐いた言葉を最後に、二人の間には沈黙が流れた。すすり泣くあなたに、かけてあげられる言葉は何一つない。 僕は、残った缶珈琲を一気に飲み干した。 中身を失った途端、温度を失い始めた缶の冷たさに僕は、心が砕け散ってしまうほどの寂しさを感じていた。 程なくして、最終電車が駅に到着し、泣きじゃくるあなたを置いて、僕は先頭車両へ乗車した。あなたに泣き顔を見られてしまっては、更に困惑させることになる。それだけは避けたくて、僕はあなたと離れることを決めたんだ。 思い出すのは、セピアに染まらない、未だ鮮やかな記憶の数々。燦々たるあなたの微笑みに、幾度となく力を貰ったこと。あなたに対する僕の心の位置を知り、覚束ないまま、一人の夜を越えたこと。そして、長い間待たせたくせに、あなたの望む未来すら贈れなかったこと。 ねえ、勝手なことを言うなって怒られそうだけど、あなたに最後まで雨ばかり降らして、惑わした、最低な僕のこと、忘れてもかまわないよ。その方が、僕も少しだけ救われる気がするんだ。 ただ一つ、あなたがもし、他の誰かと新しい幸福を見つけて、この長い眠りのような夢から覚めてくれた時に、僕は一言、あなたを苦しませる言葉を告げてしまうと思う。それだけは、許して欲しいんだ。その声はもう、きっとあなたには、聴こえはしないはずだけど。 最初から最後まで、 「嘘ばっかごめんね」って。
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