あの頃君は、それから僕は

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あの頃君は、それから僕は

香典袋を取り出し、受付で軽く頭を下げる。衝立の隙間から覗く、立派な祭壇の中心で彼女は笑っていた。安置された棺を覆う菊の花を目の端にやりながら、芳名帳に記帳する。派手嫌いの彼女らしい、実に小さな葬儀だった。震える手を背広の裾で隠す。線香の匂いに包まれながら、最後列の右端に座った。徐に遺族席を一瞥する。肩を落とす親族の顔は、血の気が引いて真っ白だった。 程なくして僧侶が入場し、読経が始まる。僕は読経の間中、ずっと遺影を見つめていた。僕が最期に見た彼女の表情は物悲しいもので、遺影の中で優しく微笑む姿は、違和感のようなものを僕へと残した。動くはずのない写真を熟視し、彼女の瞳に視線を合わせていると、彼女の声が脳裡でいとも容易く再生された。 軽くてパステルのような声色に、落ち着きのある語尾。自分の声が嫌いだとぼやく彼女の声が僕は好きだった。「ねえ」彼女が僕を呼ぶ。と同時に、脳天から雷に撃たれたような激しい頭痛が襲いかかる。胸に迫り上がる焦燥感を抑える為、俯いて鼻根を抓んだ。彼女の訃報をきいてから寝ていないせいだろうか。さっきから遺影が動いて見えて仕方が無かった。 記憶を劈く激痛と格闘していると、あっという間に焼香の順番が回ってきた。立ち上がってから僕は、何も考えないようにした。そうでもしなければ、僕は壊れてしまうとわかったからだ。合掌瞑目しながら、僕は小さく深呼吸をする。誰にも知られないまま、僕の吐息で燭台の灯明が消えてしまえばいいと、不謹慎なことだけを浮かべていた。 気づけば葬儀は終わっていた。僕はホールに背を向けて、庇の下で雨空を見上げる。曇天が降らす冷たい雫を身体全身で浴びたい気分に堕ちた。自棄になったわけではない。僕は今、自分が気色悪くてしょうがなかった。大切な人が死んだというのに、涙の一つ流すことができないでいる自分が気に入らなかった。だから、雨に誤魔化して欲しかったのかもしれない。雨粒が頬に張り付き、苦悩に顔を歪ませ、あたかも死を悲しむ人間らしい表情を演出したかったのだろう。それすらも、「馬鹿馬鹿しい」と己で一蹴する。呆れ笑いが冬の外気に触れ、白い吐息と共に溶け出していく。 「また変なこと考えて」 僕より遅れて葬儀場を出てきた君に言われた。僕とは打って変わり、泣き腫らした君の瞼は赤く膨れあがっていた。僕はビニール傘を開き、君を手招く。傘を持たない君が僕の隣に身体を寄せる。庇を出て、僕らは行き宛も決めず歩き出した。 人の死を弔った後に、僕は君とどんな会話をすればいいのかわからなかった。横殴りの激しい雨が喪服の裾と靴を濡らす。沈黙が二人の間に流れ、非常に気まずかった。君は今、何を考えているのだろう。僕にはさっぱりわからない。 言葉も交わさぬまま、街の喧騒から離れるように歩き続けて数十分。陽が落ち始めても帰路に着く気は起きなくて、ひとまず雨脚が弱まるまで酒でも呑むことにした。宅地の並びでぽつんと構える個人経営の居酒屋『藍原』を見つけた僕らは、閉じたビニール傘を傘立てに差して、赤提灯と白い暖簾の間を迷わず潜った。指を一本立て、案内された一番奥の席に腰を下ろす。瓶ビールとグラスを二つ貰い、君と控えめにグラスを鳴らし合った。 「淋しいの? それとも哀しいの?」 君の問いに、僕は何一つとして答えなかった。返事を濁した分だけ、酒で舌を濡らした。意地悪をしているわけではない。だって僕は別に淋しくも、哀しくもない。だからといって嬉しかったり、腹が立っているわけでもない。自分の感情がどんな出目を披露しているのか、自分でも皆目見当がつかない。何も答えたくないわけじゃない。何も答えることができないだけなのだ。 ばつの悪さを有耶無耶にしたくて、大した食事も取らず、ただひたすらに強い酒を浴びた。視界が暈夜け、目の前で頬杖をつく君の顔が揺らぐ。肩から垂れた巻き髪に手を伸ばし、指で毛先を挟み擦り合せた。君が不思議そうに僕を見るから、そのまま手を這わせ、頬を指で突いた。酩酊しているのか、感触はちっとも残らなかった。 障子をずらし、窓越しに外を見る。雨脚が弱まっていたので、僕は店員に一万を渡してそそくさと店を出た。 夜の帳が降りて、寒さが本格化している。未だ小雨は降っていたが、傘を差すほどでもない。僕はわざと、傘立てに差したビニール傘を忘れて帰ることにした。君はそれを眺めていたけれど、何も言いはしなかった。 穏やかに、三半規管を狂わせながら、駅の方へとゆっくり歩いた。途中、小さな公園を見つけ、そこのベンチで煙草に火を灯し、深く煙を肺へ運んだ。煙草をここまで不味いと思ったのは、彼女と別れた帰り道以来かもしれない。何をしても生きた心地がしないのは、きっと彼女が死んでしまったからだろう。たった一人の人間が死んだぐらいで、ここまで狼狽するなんて思いもしなかった。 ベンチの背にもたれながら、どうしてこうなるのか、僕は考えた。相変わらず酷い頭痛に苛まれながら、僕は必死に脳を動かす。そして、思考の先で思い出した。僕が今怯えているのは、僕が先に死ぬという密かな願いが潰えてしまったからだ。本当は、彼女より僕が先に死ぬはずだったんだ。未来地図はそれで描き終えて、あとはその道を順当に辿るだけだった。 共に死のうと誓ったあの日。最低な僕は、最初から彼女を裏切るつもりで約束を交わした。彼女が「明後日死のう」と提案してきたら、僕は柔らかな笑みを浮かべながら頷いて、「明日のうちに死んでしまう」つもりだった。彼女が「二時間後に死のう」と提案してきたら、僕は「三十分後に死ぬ」予定だったのだ。そして、僕に騙された彼女は、僕を恨み、僕のいない世界で見つけやすくなった幸福に溺れてもらう算段だった。頬が綻んで仕方がない日々を、彼女に突きつけてやりたかった。それでも、裏切られたのは僕の方だった。置いていかれたのは、僕の方だった。 「どうして」 あまりに杜撰な結末に、哀れな四文字を僕は独り言ちった。すると、隣に座っていた君が言葉を紡ぎ始める。「どうしてかしらね」君の横顔は、紛れもなく彼女の横顔だった。こんな時でさえ僕は、その端正な顔立ちと、長い睫毛に見惚れてしまうのだ。 「私は貴方を愛していたし、貴方もきっと、私を愛していた。それなのに、お互いにとってよくない結末を迎えてしまった理由は何故だと思う? あのね、貴方には耳が痛い話かもしれないけれど、私は冷たい女だから、貴方に対して申し訳ないなんてこれっぽっちも思っていないのよ。生活に花を捨てきれない性分で、日々の水遣りを欠かさない甘さが貴方にはあったから、私は一人を選んだの。茉莉花とか、夢とか、紫陽花とか、小説とか、そういう可能性の世界を捨てて、今すぐに私と死んでくれる人に、貴方はなりきれなかった。死に際ですら花に触れていようとする貴方には、私と死ぬなんて無理だったのよ。現実的ではない。ほら、そんな顔しないで。私別に貴方を責めたくてこんなことを言っているわけじゃないの。私は狡い女でもあるからさ、私のタイミングで、刹那に紛れて死を選択するなんて、最初から貴方には難しい頼みだってこともわかっていた。それでも私は期待した。その期待に応えて貰えずへそを曲げている私自身が、今は嫌いなだけよ。いい? 貴方は何も悪くないからね。私、これでも貴方のことを誰よりも理解している自負があるもの。だって、貴方のことを誰よりも愛していたからね。例え貴方が、流体のような人間だったとしても」 言葉が途切れると、君は立ち上がった。僕はその背中に向けて、嘆きのような台詞を飛ばす。 「僕は君がいれば良かった。他に何も必要なかった。明日も夢も、幸福も花もいらない。僕にとって終わりだけが救いだった。それを教えてくれたのは君だった。だから君を愛したんだ。でも、僕は勘違いをした。君には幸せになって欲しいと願ってしまった。君が僕と消えることを心から幸せだと思っているなんて、少しも信じることができなかったから。情けなくて、取り付く島もないよ」 「そうね。嬉しいけれど、少しくすぐったいわ。しょうがないことなのよ。私は貴方を苦しめるつもりで死んだわけじゃないもの。貴方の生きてきた世界には、貴方から終わりを奪う仕掛けが多すぎた。それに順応して、本懐を忘れてしまうことは決して悪いことじゃないからね。私と出逢わなければ、貴方は愉しく生きていたとも思う。だから安心していいのよ。その仕掛けがいつかは作用して、私のいない世界で見つけやすくなった幸福に、貴方を溺れさせてくれるから。これからは、生きていいのよ」 僕は君の身体を強く抱き締めたくて、腰を上げて両の腕を勢いよく前方へ伸ばした。しかし、そこには誰もいやしない。わかっている。空を切った腕を振り降ろし、膝から崩れ落ちるようにして砂上に項垂れた。途端、塞ぎ合っていた哀しみが決壊し、涙と嗚咽が交互に溢れてきた。身体は芯まで冷えているはずなのに、心臓と目頭だけが熱を持って仕方なかった。脳裡で笑う最愛の姿。横顔が美しい人だった。誰よりも愛した人だった。 間に合わないことは嫌だと誓ったのに。僕の涙が湿った地面にこぼれ、吸収されていく。僕の間違いを、君は教えてくれた。愛する人がいなくなった世界で、幸福など見つけられるわけがないんだ。どうしてこんな簡単なことすらわからなかったのだろうか。終わりが救いの僕らに許された幸福は、同時に終わることだけだったというのに。タイミングをずらす豊富な言い訳ばかりを増やし、裏切りだ、騙しだなんだと嘯いて、僕は怯えから逃げていただけなんだ。置いていかれるのがこわいから、君を置いていこうとしただけだったんだ。 「『生きていいのよ』なんて、最低じゃないか」 泣き疲れ、声と涙が枯れた。膝を抱えてベンチにもたれていると、止んでいたはずの雨が再び降り出した。まるで、乾いた僕を潤すみたいに。ふと、手の甲に乗った雨粒を舐めると、君との口付けを思い出せた。僕はやっぱり壊れているんだと、その時強く実感した。 それから、僕は一人歩いてきた道を戻り、数時間前に出た居酒屋へと向かった。暖簾と提灯を見つけ、その前で立ち止まり、入り口前の傘立てを確認する。僕のビニール傘は、誰かに盗られて無くなっていた。全て、忘れたふりをしたせいだった。小雨を甘くみたせいだった。雨止みを過信したせいだった。往生際の悪い僕は、口を大きく開けて夜空を仰いだ。雨水が口内へ流れ込んできて、少しだけ笑った。  
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