Dahlia

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ

Dahlia

ネヴァの奏でる雨落拍子のピアノは、お世辞にも上手いとは言えない。それでも、聴き慣れた音は耳を心地良くさせた。躓いて、鍵盤からネヴァが指を離す度、何だか懐かしい想いに浸れた。振り返って、少し恥ずかしそうに僕を見る彼女は今日も美しかった。メトロノームは譜面台の隣で、探し物をするみたいに左右へ忙しなく動き続けている。僕はそんな彼女の後ろ姿を眺めながら、いくつもの花を組み合わせ、フラワーリースを作っている。花々はどれも、二人で摘んだものだ。思い出が、花弁一枚ずつに染み込んでいる。 暗い部屋に、明け方の蒼白い光がカーテンの隙間から差し込む。窓際に飾られた一重咲きのダリアと目が合う。 「私、あなたから貰った全てを捨てるような女だけれど、それでもあなたは私に固執するの?」 「ああ」 「変な人ね。私、あなたが欲しがるような言葉をあげない女なのよ。別に意地悪をしたいわけじゃないけれどね。言葉ってね、酸素に触れた瞬間に腐敗が始まるの。空気中には、それだけの嘘と汚れが蔓延しているってこと。だから、私は大切なことほど、心の中に留めておきたいのよ。自らこの気持ちを傷ませるのは、とても阿保らしいから。どう、私を冷たい女だと思えたかしら。仕方のないことよ。私達は根本が違うの。咲き方が異なるのは、あくまで自然なことなのよ。ねえ、あなた、これでもう私のことなんか忘れられる?」 例えば、ネヴァが今ここで僕以外の全てを肯定して、僕を嘘で囲んだとしても、僕は彼女を嫌いにはなれないのだとわかる。ネヴァのことだ。その嘘はきっと、優しい嘘だから。彼女の甘い髪の香りも、日焼けを知らない純白の素肌も、潤いに満ちた魅惑の唇も、不自然さが一つもない高い鼻も、長い睫毛に包まれた、切り裂くような瞳も、柔らかな首筋も、眠りに誘う蕩けた声帯も、優柔不断なその質感も、虚勢と偏屈と冗談と素直と優しさも、どうやったって僕には、永遠に愛しいままでしかない。 「私、あなたに憎まれるような人間よ。裏切ってばかりの、人間なのよ」 「君がどんな風に変わっても、僕は君のものだよ、ずっと」 「そう。あなた、やっぱりちょっと頭がおかしいのね」 ネヴァは壊れそうな笑みを向け、ダンパーペダルから爪先を外し、そのまま部屋を出て行った。僕はメトロノームの針を止める。部屋から音が一つ残らず消える。最後に、完成したフラワーリースへダリアを括りつけた。彼女との思い出が脳内を駆け巡って、涙が滲んだ。ネヴァに会いたい。今はその気持ちだけでいい。ピアノ椅子が倒れる。脳が冷える。僕は君を、これからもずっと――。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!