シティポップでも聴きながら

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シティポップでも聴きながら

新橋にあるシャンパーニュの美味しいレストランで夕食を済ませ、私達はそのまま銀座グランドホテルに転がり込んだ。皺のないシーツに腰を下ろした私が、「フォアグラとシャウルスチーズのリゾットは絶品だった」と独り言ちる。君は優しい笑みを向け、ベッドサイドに添えられた灰皿に煙草の灰を落した。爪にグレーのネイルを施す君の唇は、今日もシャネルのディミトリカラーに艶立っている。細い線に肉付けしたみたいに華奢な君の身体は、本日も病的なほどに肌が白い。清潔感を纏った黒いドレススーツ姿がそれを際立てている。二十一歳、女性的なメイクが相も変わらず良く似合う。その横顔の独占権が私にあるとは、未だに信じ難いが、束の間だろうと私はこの幸福を享受すると割り切っている。見惚れながら、君は思春期に、泥だらけのユニフォームなんて着たことはないのだろうと考えていた。 明日は二人で国立近代美術館へと足を運ぶ予定だ。今の時期、クロード・モネの作品展が開催しているらしく、私がどうしても行きたいと君を連れだした。モネの作品は好きだ。印象派の画家の中でも、その存在を知らない人間はいないだろう。私は『戸外の人物習作(左向きの日傘の女)』が見られると、昨晩から期待に胸を躍らせている。モデルの顔をヴェールで覆い、輪郭のみで構成されたその作品は、人の奥ゆかしさや、当時、モネの妻で、亡くなってしまったカミーユへの切なき心情が浮かび上がっているようで好きだった。 君が煙草を吸い終わったタイミングで、一応キスをした。本当は、最近二週目を終えたバタイユの『エロティシズム』についての考察であったり、夏目漱石『こころ』のKにまつわる論争で君と夜を明かしたいのだけれど、そういうわけにはいかない。このレベルの男性を隣において眠るのに、上の口だけで満足してしまうのは勿体ないと私の本能が叫ぶ。唇が離れる時、君の胸元から香水がふわりと香った。私があげた、マラケッシュ・インテンス・パルファムの匂い。思わず君に抱きつくと、そのまま君は私をベッドへ寝かせ、仕事を始めた。 性行為をしている時、私は君の作るギムレットの味をよく思い出す。私はギムレットが大好物だ。ジンベースのカクテルがそもそも好きだからとい う部分もあるが、何よりレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』を読んでからは、その魅力に憑りつかれている。君が甘い言葉を囁きながら、 リップ音交じりで私の耳を舐める。その度に脳裏をよぎるには、いつだって――I suppose its a bit too early for a gimlet.――だ。 オーガズムがやって来て、声を押し殺し、喘いでしまわぬよう堪える私の髪を君が撫でる。そのあとは、交代でシャワーを浴び、ベッドで二人同じ音楽を聴いた。君が好きだという流行のシティポップ。私がこれを聴きながら丸の内周辺を徘徊するには、十五年ほど遅かった気もする。―― 恋をするには遅すぎる。――ということなのだ。悲しいけれど。 君の腕に包まれていると、ゆっくりと睡魔が迫ってきた。君ともう少しお喋りをしたいけれど、二人で同じ夢をみられるのなら、目を閉じてしまうのも悪くはない。明日は忙しい一日になる。午前中は君とデートをして、午後には息子が野球部の合宿から帰ってくる。家に帰れば、山のような洗濯物が私を待ち受けている。冷蔵庫も空っぽにして出てきたから、帰りに業務スーパーで食材を買い溜めしておこう。そんなことを思いながら、私は君の頬に再度キスをしてそのまま眠った。「私、まだまだいけるんじゃない?」と冗談を言った時の旦那の表情は、思い出すことすらできなかった。
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