一般

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東京の上空を夜汽車が駆ける。寂気な彼と、健気な彼女を連れて、甘い汽笛を鳴らしている。 二号車に乗ってみたけれど、赤子の夜泣きや、女学生たちの破廉恥な高笑いが五月蠅くて、それがどうにも彼女には苦しそうで、彼は彼女を連れて車両を変えた。 三号車は静かで過ごしやすかったけれど、天井の灯りが取り替えたばかりの新品で、あまりに強く輝くものだから、彼は再び車両を変えた。 四号車は、人も少なく、灯りも落ち着きがあった。彼も彼女もほっとして、対面席に腰を下ろし、二人は車窓から遥か下に広がる街の姿を眺めた。 「僕は、君が僕を忘れてしまうことが、実を言うと、とっても怖いんだ」 外の世界が闇に包まれているせいか、窓硝子には、二人の顔がくっきりと写っている。 「べつに平気よ」と言って、彼女は彼の不安を笑い飛ばした。「あなたの言う通り、私は朝を迎えたら、あなたのことを忘れてしまうかもしれない。全てを思い出せなくなって、記憶の奥底に、あなたがくれた言葉は沈んでしまうかもしれない。けれど、それって素敵なのよ。私は信じているの。たとえあなたを忘れてしまっても、再びあなたを見れば、あなたをまた好きになるってね。だって私、そうとしか思えないんだもの。おかしいでしょ。でも、新鮮さが永遠に続くと思えばそれも悪くないでしょ。何度だって私はあなたを忘れて、再びあなたを好きになる。この繰り返しが、世間一般でいう恋とか、愛みたいなものなんじゃないのかしら。私は、何か間違っていると思う?」 彼は首を大きく横に振った。「君なら、本当にそうしてくれそうだね」 満足げな彼女は錠剤を二つ、舌の上に乗せて、飲料水でそれらを流し込んだ。彼はその様子を一瞥するが、見慣れた光景だった。 「あれ、私、切符を何処かに置いてきたかもしれない」 焦る彼女へ、彼はジャケットの胸元から切符を二つ取り出して見せた。「僕が預かっておいたんだ」 「あら」彼女は頬を抑え、幼く照れる。「あなたとなら、生きていくのも悪くないかもね」 東京の上空を夜汽車が駆ける。寂気な彼と、健気な彼女を連れて、甘い汽笛を鳴らしている。
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