いつかレーヌで、君に愛を誓えたならば

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いつかレーヌで、君に愛を誓えたならば

出鱈目に文字を書き連ね、創作的誇張と下品の払拭を連続して行う。生産性は今のところ無きにしも有らずという程度で、満足感ばかりで腹を満たしながら朝を迎えることには慣れた。時刻は四時半を回り、灰が街に零れ始める。大きな欠伸を一つ挟んで、肩と首を揉む。椅子の背にもたれながら、一丁前に疲労の溜まった目頭を抓む。いつまで持つだろうか。そんな口癖があった劇作家志望の友人が二年前に自殺したことをふと思い出した。未だ絶望の霧は晴れない。喉に詰まっている痰よりも黒い恐怖感を、薄い珈琲で流し込んだ。 パソコンを落として、隣の寝室へと向かう。扉を開けると、彼女の寝息が少し聴こえた。僕は彼女に被さる掛け布団を優しく持ち上げ、中へとゆっくり忍び込んだ。右を向いて眠る彼女に背を向け、左腕を枕にして目を閉じた。半分だけ架空の声と台詞が、脳内で残響している。 彼らが行きたがる場所へ、僕はちゃんと連れだってあげられるのだろうか。不安が押し寄せる。手の震えは、半年前から始まった。明日、俺が死んでも、お前は俺の死を題材に書けよな。友人の言葉を鵜呑みにした罰だろうか。硬直する神経が、記憶をふらつかせた。 「眠れないの」 「ああ」 彼女が振り返り、僕の身体に腕を回す。その指先が小刻みに揺れる僕の手を優しく包む。人肌に溶け、春に似た温かさを七月の明け方に覚える。第二関節を越えた場所に、細い輪を感じた。いつまで持つだろうか。友人の言葉が胸を過ぎって、涙腺を叩いた。 「北欧ノルウェーに、レーヌという村があるのを、知っている?」絞った声量で、彼女が僕に問う。 「いいや。知らない」何の話だろうか。僕は彼女の手に触れながら、北欧の街を想像してみる。 「レーヌ村はね、ノルウェー最大の雑誌で最も美しい村に選ばれているの。ロフォーテン諸島にあって、人口は三五〇人ほどの小さな漁村なんだけどね。世界中から毎年数千人は観光に訪れるそうよ。山々と緑に囲まれた小さな村で、水面にそれらが反射して壮観な景色を生むの。北欧らしい色使いの建造物も魅力で、運が良ければオーロラも見られるかもしれないんだって」 「それは、いつか行ってみたいね。何かで見たの?」 「ううん。私たちが出逢った頃、あなたが教えてくれたのよ。いつか君と一緒に行きたい、レーヌという美しい村があるって」 漠然と心に空が生じた。驚愕する間もなく、彼女の語尾が途切れ、我慢していたはずの涙が溢れた。嗚咽含みで泣く僕を、彼女は強く抱き寄せた。向き合って、頭を撫でられる。大丈夫、あなたなら。僕は、独りでに結んだ糸が、彼女を縛らないことだけをただ祈っていた。
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