枇茉鳴と冗談

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枇茉鳴と冗談

「ごめんなさい」と頭を下げた彼女が、僕を愛せない理由を語り始めた。 明け方の街。六月下旬にもなれば、日の出は早く、空は既に青白い。澄んだ外気に交じる朝の陰鬱と高揚が、信号機の点滅に合わせ交互する。駅前の、喧騒には及ばぬ静かな風が二人の言葉を攫う。彼女は僕を置き去りにして歩道橋へ上がる。遅れをとらないよう、その華奢な背中を追い、階段を一段飛ばしで登った。人知れず呼吸を整える。手すりに腰をかけ、彼女が話を始める。そんなつもりは無かったが、耳を貸すしかない状況に僕は置かれた。偽物の欠伸を彼女へ披露し、相槌を挟みながら冷静さを装った。指先が熱かった。 「六月といえば、君はどんな花を浮かべる?」 「紫陽花とか」梅雨は嫌いだ。紫陽花が好きだから。紫の肌を濡らす温い雨が、この時期になるとさも平気な顔で毎年やってくる。当たり前だよな、梅雨だし。そんな雨が嫌いだ。この世に、当たり前で済まされていいことなど何一つとしてありはしないのに。 「そうだね。でも、私は枇茉鳴が好きだな」 「枇茉鳴?」聴き慣れない花の名に、彼女の言葉を往復させる。そこに線上の繋がりが薄らと生まれた。 「そう。まるで向日葵みたいな、そんな名前の花。バラ科の植物でね。マイナーだけど、とても綺麗なの。蕾の状態では細やかな産毛が密集していて、花弁は小さいけれど濃い紅をした綺麗なものが咲く。ここら辺じゃ咲いているのは見かけないけれどね。六月が旬で、咲き時なの。でも、六月には紫陽花という大きな印象が根付いていて、夏が来れば向日葵が笑い出す。枇茉鳴は行き場を失うから、あまり人気がでない。育てても上手く咲いてはくれないし、なんせ萎れやすいという難点を抱えているから」 「そうなんだ。どうして、そんな話を今僕に」 「私、心に誓った人がいるの。枇茉鳴を教えてくれた人。その人が心から消えない限り、他の誰も愛することはできない。その人を、私は裏切れない。大切な事を沢山教えてくれた彼を残したまま、君を愛するなんて不純で、私にはできないの。だから、ごめんなさい」 橋の中心で、身体を折って再び頭を垂れる彼女。僕は何も言わず、その髪の隙間から覗く噛んだ唇を見た。他愛もない優しさだけの世辞を吐いて、僕はその場を立ち去った。煙草を吸おうとくわえてみたが、湿気っていたのですぐに捨てた。 歩きながら、スマートフォンで枇茉鳴について調べる。何一つとしてヒットはしなかった。知っていたはずだ。僕も同じだから。通りに咲いた紫陽花に目をやる。朝露を指で拭う。別れ際、彼女は泣いている気がした。目が悪いのでよく見えなかった。
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