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そんな意味じゃない。
わたしは彼を見つめる。
「だって、君、言ったでしょ。」
彼もわたしを見つめる。
わたしは、気がついたら、手足の自由を奪われ、ベッドに寝かされていた。
パニックになり、泣き叫んだのは、数時間前の事。
今も、恐怖で気が狂いそうだが、彼がわたしに何かの注射をした時から、どこか落ち着いた気持ちのわたしもいる。
「ねぇ、これは一体どういうことなの?」
彼を刺激しないように細心の注意を払って言う。
彼はわたしの側に座っている。
わたしは彼の方に顔を向け、彼を見つめる。
「だって、君、言ったでしょ。」
彼もわたしを見つめ、
「わたしを食べて。って。」
そう言って、微笑んだ。
彼の目は狂気に満ちていた。
わたしは、過去の記憶を辿った。
そんなわたしに彼が続けて言った。
「僕、"わかった"って、約束したよね。忘れちゃったの?」
半年前の会話を思い起こす。
まだ彼と出会ったばかりの頃。
彼の容姿は、わたしの好みだった。
静かな性格も。
社会的地位も申し分なかった。
だから、わたしは彼にアプローチした。
そして、その日、少しお酒に酔ったわたしは、こう言った。
「わたしを食べて。」
そう。確かにわたしがそう言った。
わたしは、彼をわたしのものにしたいと思っていたから。
大人なら、この"食べて"がどういう意味なのかはわかるはず。
「えっ?」
彼は、目を丸くして、驚いていた。
そんな彼を見つめながら、わたしは続けた。
「今日じゃなくてもいいから、約束よ。」
わたしがそう言うと、彼は何かを考えるように少し間をおいて、
「…わたった。約束するよ。」
でも、それからも、彼はわたしを食べることはなかった。
わたしの言う意味の"食べる"事は。
わたしが沈黙していると、また彼が話始めた。
「だから、僕、一生懸命、練習したんだよ。どうしたら満足して貰えるのか、どうしたら痛くないのか、どうしたらおいしく食べられるのか。」
狂ってる。
「でも、なかなかみんな満足してくれないし、苦痛で歪んだ顔は美しくないんだ。だから、おいしくなくなっちゃうんだよ。」
彼は、眉間にシワを寄せながら、いかにも迷惑と言わんばかりの表情をする。
「だからね、僕、色々試してみたんだよ。どうしたら美しく、おいしくなるか。」
そして、嬉しそうに目を輝かせ、
「でね、わかったんだよ。まずは、痛くない事、これが大切でね、あとは優しい言葉と、快感があれば、美しく、おいしくなる事がわかったんだ。」
嬉々として言った。
「とても大変だったけど、君のために、僕、頑張ったんだよ。」
そう言って、わたしの髪を撫でる。ゾワっと、全身を寒気が走る。
「だから、安心して。君は、痛くないし、とても美しく、幸せな気持ちで、おいしくなれるんだよ。」
彼がわたしの腕を撫でる。そして、脚を撫でる。
違う。そうじゃない。
そう言いたいのに、言葉が出てこない。
「そろそろ薬が効いてきたみたいだね。」
彼がわたしに微笑む。無邪気にいう彼が恐ろしかった。
でも、彼に打たれた注射のせいか、なぜか少しいい気持ちだ。恐いのに、それももうどうでもいいような。
彼がわたしの躰に触れる。
「なんだかいい気持ちになってきたでしょ。」
わたしの耳元で、彼が優しい声で言う。
「もうすぐだよ。もうすぐ君は僕に食べられるんだ。」
そう言って、至近距離でわたしの目を見つめ、優しく頬を撫でる。
「約束は守るからね。」
わたしは、その言葉を聞きながら、混沌の中に落ちていく。
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