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第6話 廸(2)進との結婚に至る恋愛ごっこ
私、旧姓 若狭 廸が吉田 進と出会ったのは12年ほど前だった。
元彼の松寺 宏と別れてから1年くらいは経っていたかもしれない。あのころの私はそのことからまだ立ち直れていなかった。でも元彼というほどの関係ではなかった気がする。単にお付き合いしていただけと言った方が合っている。
宏と出会ったのは入社して2年目くらいだった。仕事にもようやく慣れてきて生活にもゆとりができたころだった。人数合わせに誘われた女子大学時代の先輩の合コンに参加した。そのときに会ったのだけど、彼も人数合わせで参加したとのことだった。同じ人数合わせで参加したので、それがきっかけとなって時々会うようになった。
彼は大手商社に勤めている有名大学出身のエリート社員だった。5歳ほど年上で、見た目もかっこ良く、優しくて女性の扱いにも慣れている感じがした。何事にもそつがなくて食事をする時も洗練された店に連れて行ってくれた。それで誘われて何回かデートをした。
そのうち合コンに誘ってくれた女子大の先輩と二人で自分のマンションへ遊びに来ないかと誘われた。現地集合となっていたので彼のマンションを訪ねた。
マンションで待っていてもなかなかその先輩は現れなかった。彼に問い正すと「二人きりになりたかったので、嘘をついてしまった」といった。そして私をいきなり抱き締めてきた。とても強い力だった。
私は力一杯抵抗して、その腕を振り払って部屋を飛び出してきた。後ろで「俺が好きなんだろう、いいじゃないか」と叫ぶ声が聞こえた。でも振り返らずにエレベーターに飛び乗って急いでマンションを離れた。
彼に誠実さが感じられなくて、とてもいやな気持だった。そのあと彼からの連絡が途絶えた。私に失望したのかもしれないが、私こそ彼に失望した。私を一人の女友達としか見ていなかったと思って惨めな気持ちになった。また、私を大切に思ってくれていなかったのが悲しかった。
私は女子大を卒業して今の食品会社に就職した。大学では栄養学や食品加工を学んだ。私は進学校の女子高校から女子大へ進学したので、恋愛の機会も少なくていままで恋愛経験がなかった。
だからかえって恋愛に無頓着だったのかもしれない。一人の人を好きになって愛することなど深く考えたことがなかった。まだ20代でもあったし、結婚もまだ早いと思っていた。
ただ、彼とのことが契機になったのは間違いない。人を好きになるってどういうことだろう、どういう人が私に向いているのだろうと考えるようになった。
そんなときに進と出会った。彼は関連会社に勤めていて、会議で同席するようになったのがその始まりだった。
彼は入社して7~8年くらいで、30歳手前だったと思う。地方の大学を卒業した理系の営業職だった。会議には会社の上司と来ることもあったが、後輩と一緒に来ることが多かった。顔はハンサムとまで言えないが、整った顔立ちをしていて、清潔感があって、嫌いではなかった。
会議中に彼を見ると目が合うことがあった。それで私は彼が会議中に私を見つめていることにたびたび気が付いていて、私に好意を持ってくれているのかしらと思っていた。
仕事の関係で、会議で同席することも、2対2で会うことも、1対1で会うことも増えていった。2対2の打ち合わせの後では親睦のために軽く飲み会をすることもあった。それで進とは個人的な話をする機会も増えていった。それで自己紹介などで彼の身の回りのことや性格が大方分かってきた。
彼は誠実で仕事にしっかり向き合っていて、会社の代表として、自分の意見を持っていた。議論しても理路整然としていて論破されることもあった。お互い妥協できないところは、あえて駄目を詰めなかった。それで議論が煮詰まるまで結論を先送りにするような柔軟さもあった。
また、4歳年上でもあり、頼りがいのある芯のしっかりしたところがあった。始めは私が彼に恋愛感情を持っていなかったのは間違いない。それは関連会社の人と付き合うことは仕事上もまずいと考えていたためでもある。
誰かと誰かが付き合っているとすぐに社内で噂なったりする。付き合ってうまく行けばよいが、別れたりすると、あとあと気まずい。職場結婚する可能性もあるのでできるだけそういう噂になるような行動には気を付けていた。
また、松寺 宏とのことも尾を引いていたのは間違いない。男性不信もあったのだと思う。
でも、進のその誠実さに惹かれていったのは間違いない。それに会議中に私を見つめていることもあったので、ひょっとして好意をもたれているという思いがあった。好意を持ってくれた人には好意を持ってしまう。自然のなりゆきだったのかもしれない。
ある時、懇親会の後で彼と偶然帰る方向が同じで駅まで二人きりになった。私は少し酔っていたのかもしれない。いつもより口数が多くなって気持ちも大きくなっていた。それで、歩きながらとりとめもない話題で話が弾んでいたところで、気になっていたが、今まで聞けなかったことを思い切って聞いてみた。
「吉田さんって、彼女いるんですか?」
私は彼が独身であることは知っていたが、こういう質問をすることで彼に関心があることを知らせることができると私には分かっていた。それに彼女がいないのか本当に確かめたかった。
突然こういう質問をされるとは思わなかったのか、私の顔を見た。しばらく時間をおいてから、ゆっくりと答えてくれた。
「いない。ただ、1年ほど前に高校時代からの女友達にお見合いすると告白された。そしてほどなく彼女は見合い結婚をした。結婚の挨拶状を突然もらって、すごい喪失感を覚えた。ただの女友達だと思っていたのにね」
「失恋したような?」
「いや、彼女とは付き合っていた訳でもないんだ。ただ、高校からの友人だった」
「その方、吉田さんが好きだったのですね。でないとそういうことは話さないから。それに吉田さんもその方が好きだったのは間違いありません」
「確かにその時はそういう意識はなかったけど、あとから少しずつそれが分かってきた。僕は恋愛には向いていないね」
自嘲気味の答だったけれども彼の誠実な人柄が感じられた。また、いつもは見せないその寂しそうな彼の影の人柄が見えたような気がした。私だけにそれを見せてくれた、私にだけにそれが見えたと思うとどういうわけかすごく嬉しかった。
「吉田さんに彼女がいないのは分かる気がします。吉田さんは会議で意見が対立しても相手を追い詰めたりは決してしないし、自分が折れて相手の顔を立てたり気配りがすごくできて、尊敬しています。ただ、自分を抑え過ぎるところがあると思います。女性に対しても自分の気持ちに素直になれなかっただけだと思います」
「僕はその自分の素直な気持ちが認識できないのだと思っている。どうしようもないね」
「じゃあ、私と『恋愛ごっこ』してみませんか? 素直な気持ちというものが分かるようになると思いますが」
私は唐突に思いついた提案をしていた。彼と恋愛がしてみたい。そういう自然な気持ちがあったので思いついたのかもしれない。
「『恋愛』じゃなくて『ごっこ』? 恋愛の振りをする?」
「『ごっこ』ですから、本気じゃなくていいんです」
「若狭さんとその『恋愛ごっこ』をすると素直な気持ちが分かるようになるというのか?」
「はい。きっと」
彼は唐突な私の提案に驚いたように見えたが、あえて断らなかった。その時、私に好意を持ってくれていると確信した。また、彼自身そのことに気づいていないことも私にはよく分かっていた。
「でもこのことは絶対に秘密にしましょう。周りからいろいろ言われたり、興味を持たれたり、気を使われたりするのはいやでしょう。職場関係の恋愛は仮に『ごっこ』だったとしても、いろいろリスクが高いですから」
「分かった。若狭さんが協力してくれるなら、その『恋愛ごっこ』をしてみようかな」
こうして『恋愛ごっこ』なるものを始めることになった。私も恋愛経験があるわけではなかったので、私にとっても手探りの『恋愛ごっこ』だった。
それからは週末にデートに誘ってみることにした。彼は断りもせずに付き合ってくれた。私は恋人だったらすると思われることを試みた。
二人で歩くときは私から手をつないでみたり腕を組んだりしてみた。彼は自然にそれに従ってくれた。はたからみると二人は恋人同士のように見えたと思う。それほど私たちは上手に「恋愛ごっこ」をすることができた。
でも私は仕事の関係で会議に同席したときや2対2や1対1で打ち合わせをするときは決してそのような素振りを見せなかった。もちろん彼もそんな素振りは少しも見せなかった。
私はできるだけ機会があるたびにデートに誘った。いつだったか、週末に実家の急用が入ったことがあって、誘えないことがあった。
その時は「どうしたの? 体調でも悪いの?」と彼から電話が入った。私のことを気にかけていてくれて、デートを楽しみにしてくれていると思うと嬉しかった。それからは予定が入った時は前もって連絡することにした。
彼は私とのデートを楽しんでくれていた。それは私を見る優しいまなざしで分かった。私と話しているとほっとするとも言ってくれた。私も彼の誠実な飾らない人柄に惹かれていった。
ただ、デートにはいつも私から誘っていた。彼から誘われることは一度もなかった。それが私には不満というか不安だった。
彼が私に取った態度は、私が関連会社の社員で仕事上の付き合いがあるという前提があったうえに「ごっこ」が前提になっていたので、誠実というか真面目そのものだった。やはり本人がいうとおり、恋愛には向かない性格だったのかもしれない。
だから1年ほどそういうおつきあいというか「恋愛ごっこ」が続いていたが、彼はそれ以上前に進もうとはしなかったし、おそらくできなかったのだと思う。ただ、私をとても大切に思ってくれていたことは間違いないし、だから前へ進むことを自ら戒めていたのかもしれない。それで私はここまでが限界と思って、勝負に出た。
「お見合いの話があるので、もう『恋愛ごっこ』を終わりにしたいのですが?」
私が彼を試すためにお見合いの話を持ち出したのはすぐに分かったと思う。私は彼から女友達との失敗談を聞かされていたからだ。
私から突然この申し出を聞いたとき、彼は私の目をじっと見て、迷わずに言ってくれた。
「ああ『恋愛ごっこ』はもう終わりにしよう。終わりにする代わりに僕と結婚してくれないか?」
おそらくその時には、彼は自身の素直な気持ちが分かっていたし、過去の失敗を繰り返してはいけないことも分かっていた。でもこんな時にこんなタイミングでプロポーズの言葉を言うことになろうとは思ってもみなかったのだろう。彼らしい誠実さだと思った。
私は突然のプロポーズがとっても嬉しかった。これを期待したのだけど、いざ本当にプロポーズされると気が動転してしまって、ええっ、どうしようと黙ってしまった。
私のその沈黙に彼も気が動転してしまったみたいだった。自分の思い過ごしだったのか? いやいや、そんなはずはない、そんなことを考えていたのだと思う。
「すぐに決められないなら、僕と本気で恋愛してみてくれないか?」
そういわれるまでに私は気を取り直していた。それを聞いて私はニコッと微笑んで答えた。
「はい、結婚を前提にした恋愛をお受けします」
よく考えたら、あのプロポーズを受けたとき、あんな風なプロポーズを想定していなかった。よくあるようなどこか素敵な場所で指輪を差し出されるプロポーズを望んでいたのが分かった。一生の大切な瞬間を大切にしたい。それですぐに「お受けします」と言えなかったのだと思った。
それからの彼は箍がはずれたように私との関係を深めていった。次の週末には彼の部屋に遊びにこないかと誘われた。もう、すぐにでも私を自分のものにしたかったみたいだった。それはすぐに分かった。
私は彼の部屋に遊びに行けばどういうことになるかよく分かっていた。それを期待もした。今の彼なら私の期待に応えてくれることも分かっていた。
私は遊びに行くことを承諾した。私は決心していた。彼とそのあとどういうことになろうと、万が一別れることになろうとも後悔しないと、また、それを良い思い出にしたいとも思った。
◆ ◆ ◆
彼の部屋を訪ねて行った日のことは、鮮明に覚えている部分とほとんど覚えていない部分とが交錯してモザイクのようになっている。
部屋に入って彼に抱き締められてキスされたことまでは覚えている。それからは頭に血が上ってしまったのか、ほとんど記憶にない。
ベッドで抱き締められて二人がひとつになろうとしたときに、耳もとで優しく囁く声が聞こえたのを覚えている。私は緊張で身体がガチガチだったのだと思う。
「もっと身体の力を抜いて」
それからあそこに痛みが走った。その痛みが徐々に強くなっていった。驚いて声が出ない。我慢できるけど辛い、そう思っていたら彼が手を握ってきた。その手を力一杯握り返した。すると彼は一瞬私を強く抱き締めたかと思うと身体を離した。そして私は苦痛から解放された。
ほっとした。彼のものになって嬉しかったのだと思う。涙がこぼれた。彼は私を抱き寄せて強く抱き締めてくれた。
私は身体を丸めて抱かれていた。静かに髪をなでられていつの間にか私は眠ったみたいだった。緊張で疲れたんだ。
どれくらい眠っていたのかは分からない。気が付いて目を開けたら彼が私の顔を覗き込んでいた。優しい笑顔だった。
「ありがとうございます。うまくできましたか? よく分からなくて」
「ああ、うまくできた。ありがとう。初めてだったんだ」
私は黙って頷いた。彼は私を抱き締めてくれた。彼が初めてだったかは私にはよく分からない。でも私の扱いにはぎこちないところはなかったし、安心して彼のなすがままになれた。だからよく覚えていないのだと思う。でもそんなことはどうでもよかった。今の私だけを見ていてくれればそれで十分だった。
◆ ◆ ◆
そして3か月後に正式にプロポーズされた。嬉しかった。私は普通に正式なプロポーズをしてほしかったから、最初のプロポーズの時はとても嬉しかったけど、どうしようかとすぐに答えられなかったとそのとき話した。
その7か月後に二人は結婚した。そして2年後に恵理が生まれた。私は今も仕事を続けている。その時の彼のお給料では専業主婦は無理だったし、私も働き続けることを望んだからだ。
彼は運命の人と言ってもよいかもしれない。私にぴったりのパートナーだと思っている。家事の分担もしてくれているし、恵理の面倒もよくみてくれるイクメンだ。出会いから結婚までの経緯を振り返ってもそうだ。
誠実で性格も良いし、私と一緒にいると気が休まって癒されると言ってくれるけど、私もそうだ。一緒にいると気が休まって癒される。そういう安心感がある。特に不満もないし、これまで大きな喧嘩もなく仲良く暮らしている。だから彼が浮気をすることなど想像もできない。
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