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第八章
「かんぱーい!」
モモが乾杯の音頭をとった。カウンター越しに三人でグラスを合わせる。旬の位置は宇川の隣。以前客として何回かこのカウンターに座ったことはある。だがカウンターに立つ側を経験したことで、何もせずに座っていることに違和感を覚えるようになった。
「旬、せっかくのお祝いなんだからソワソワしないの」
「そうよぉ、今日はおチビとハカセのお祝いなのよ? アンタ達が主役。楽しみなさい」
無事に復縁し、一緒に住み始めた二人を祝うという体の飲み会。もちろん会場はMomoだ。旬の姿があまり人目に触れないようにと考慮して、店を貸切にした。モモと何かと旬と宇川に縁がある芹沢の四人で集まって思い思いに酒を飲む。普段は営業の為に酒の量をセーブしているモモも飲むペースが早かった。
「ほら、旬の好きな角煮」
「うまっ!」
「本当だ。トロトロで美味しいね」
「アタシがあげた圧力鍋があれば簡単よ。今度、レシピ教えてあげる」
「サンキュー」
齧り付くとトロリとした甘い肉汁が口の中いっぱいに広がる。それをコークハイで流し込んだ時の爽快感も堪らない。あっという間に角煮はなくなり、みんなで持ち寄った惣菜や肴をアテに酒を楽しんだ。
「そう言えばねこちゃんは家に慣れたの?」
「最初は警戒してビクビクだったけど、今はすっかり寛いでる」
「旬と違って神経が図太いのね」
「うるせー」
コークハイをおかわりしながら、宇川の方を見る。宇川は相変わらずのペースでジンのロックを飲んでいた。こうして表では物静かなフリをしているが、家で見せる表情はまた違う。
引っ越した当初もそうだった。横顔を眺めながら、旬は家での宇川の態度を思い出した。
先週、友人達に手伝ってもらい引っ越しが無事に完了した。
とにかく旬は所有している機材が多い。なので一室を丸々倉庫にしてしまった。前の家で使っていた小さな机持ち込んで作業も出来るように環境を整えた。もう一室は宇川の書斎として使い、あとは寝室に一部屋、そしてそれを繋ぐ広々としたリビング……キッチンも広くて使いやすい。理想の間取りだ。
旬はこの部屋をすぐに気に入ったが、ラムはそうもいかなかったようで、家に着いてもキャリーから出てこなかった。
「ラムー。マグロのジュレがあるぜ」
「……」
「しばらくそっとしておこう。寝室にキャリーを置いて落ち着くまで待つんだ。ネコちゃんは知らない場所が苦手だから……こればかりは慣れてもらうしかないな」
普段から動物と触れ合っている宇川が言うのだから間違いない。宇川と初めて動物病院で出会った時も、怖がってキャリーから出てこなかった。それを考えると宇川の言う通りにした方がいいのかもしれない。
「拾ってきた時はすぐに家の中で暴れ回ったくらいだったんだけどな」
「あの時は土砂降りの雨の中を拾ってもらったから安心しきってたんだよ」
二人で選んだソファーに腰掛けて遠巻きからラムの様子を見る。ラムもこっちの様子を窺いながらもなかなか出て来なさそうだった。
「明日からまた仕事だろう?」
「ああ、明日からまたリハ。秋頃に今度はドラマのタイアップが決まったからその曲を詰めてく感じ。あとはフェスだな。セトリ考えねえと」
「目まぐるしいね」
宇川が労わるようにして旬の赤髪を撫でた。そのまま宇川の方にもたれかかる。宇川の香りが鼻をくすぐった。明日から始まる多忙な日々も、宇川となら乗り越えることが出来る。
「博志」
「ん?」
宇川に向かって唇を突き出す。旬なりのキスのおねだりに宇川はすぐに答えた。唇が重なり合う。宇川と復縁してから、会う時はキスをねだる頻度が上がった気がする。
「今日は随分と甘えん坊だね」
「一緒に住めるんだから……浮かれんのは当たり前だろ」
「……俺も浮かれてる」
宇川の方から何度もキスをされてこのままより深いキスが待っている。何もかも宇川に明け渡そうとしたその時だった。
「……ンニャ」
足元に何かが当たった。いつの間にかキャリーからラムが出てきていて、旬の足に甘えるように身体を擦り付けていた。そのままソファーをよじ登り旬の膝の上に乗る。
「俺達が仲良くしてたから寂しくなっちゃったかな?」
「ラム、寂しかったのか?」
膝の上で丸まるラムを撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らし始めた。このままの調子でこの家に慣れてくれたらいい。宇川が旬とラムの為に用意してくれた家なのだから。
「ラムちゃんも大丈夫そうだね」
「ああ、安心した」
一通り撫でてやると今度は宇川の膝の上に乗り、腹を出して寝る。無防備な腹を撫でながら、宇川はふと思い出したかのように話し始めた。
「そう言えば一つ旬に言っておかなきゃいけないことがあって」
「何?」
「うかわ動物病院を離れることになった」
「え……」
「兄が帰ってくるからね。秋からは兄が副院長として働くことになったんだ」
宇川の兄が別の場所で経験を積んでいたのは知っていた。だが、今まで院長である父を支えていたのは宇川だ。それがいきなり交代、しかも宇川が別のところに行かされるだなんて……旬は宇川の仕事のことを本人づてにしか聞いていないが、なんとも言えない怒りが込み上げてくる。
「博志はそれでいいのかよ!」
「構わない」
「だって独立する為にとーちゃんのところで頑張ってたんだろ? それがこんないきなり変えられて、しかも別のところに行くって」
「いいんだ。俺にとっていい話だから」
興奮気味に話す旬と対照的に宇川は穏やかな笑みを浮かべていた。
「……分院を任されることになってね」
「ぶんいん?」
「ああ、旬も知ってるかも知れないが父は猫に関しては有名な獣医でね。都外からも猫ちゃん達がやってくる。年々診察数が増えてきて、分院を作ろうと言う話になったんだ」
「そこに移るのか?」
「ああ、院長としてね」
「院長⁉︎ すげえじゃん‼︎」
「自力とは言えないけれど、独立と言っていいかもしれない。夢が叶ったんだ」
また父に借りが出来てしまった、と宇川は笑っていた。喜んでいる宇川を見ていたら鼻の奥がツンとする。泣きそうになるのをグッと堪えながら、旬は宇川のことを力一杯抱きしめた。
「博志、おめでとう。本当に、本当におめでとう」
「全部、旬のお陰だよ」
「俺は何もしてねぇよ」
「いや、君のおかげだよ」
自分が宇川に対してしてあげたことなどまるでない。いつも支えてもらってばかりだった。
「実は君と出会った頃にこの話をもらっていた。でも俺は自信がなくて断ってたんだ。でもMCを克服しようと頑張っている君を見ていたら……俺も挑戦しようって、そう思えたんだよ」
宇川の眼差しに心の中で何かが落ちる音がした。
自分が好きな人の後押しを出来たことが、ただ嬉しい。
「旬が先に夢を叶えてしまったけれど、俺もようやく追いつくことが出来そうだよ」
そっと手を握られる。握られた左手にそっと指輪がはめられた。あまりにも突然過ぎて、旬は何も言えずに瞬きを繰り返す。
「いつ渡そうか悩んでたんだけど……受け取ってくれる?」
「え、左手の薬指って、まさか、そういうこと?」
「それ以外に何があるんだ?」
宇川の顔を直視できない。俯いているとそっと顔に手を添えて顔を上げさせられた。
「答えを聞かせて」
そんなの最初から決まっている。あの日出会った時から、旬は宇川と共に歩むのだろうと心のどこかで予期していたのかもしれない。
「ラムと三人で、幸せになろうな」
「ああ、もちろん」
ラムはいつの間にか姿勢を正して二人を見つめていた。キラリと光る指輪を見て「ニャアン」と嬉しそうな鳴き声をあげた。
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