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服は洗濯機に投げ込むだけで洗ってあるし、掃除はゴミ出しくらいの負担でいいのだ。
聞きようによってはぐうたら息子のクズさ具合がどれほどか程度の話だが、所詮先月まで高校生だった男子なんてこんなものだろう。
「気になるバイトとかやりたい事あんの?」
「いや…まぁ、時間が合えばとか、接客業とかじゃねーならいいなぁ、って」
「…工場、とか?」
工場は時間的にどうだろうか。
うーんっと頭を捻りながら、ぺらりぺらりと雑誌を捲る中、大貫が視線を入口方向へと向けると、にかっと笑った。
「お、ちょうどいいとこにっ」
「は?」
「え?」
いきなりの大貫の声に帆高も大海も間の抜けた声を上げたが、それと同時にカランっと聞こえた音。
「お前んとこバイト辞めたって言ってたなかったか?」
―――え?
自分達の方に向けて話しているのではない。
もっと、後ろの方、
「…バイト?」
そちらに振り返れば、眼に入ってくる藤色。
「……っ」
思わず声を上げそうになったのを何とか堪え、眼だけをぎゅっと見開いた帆高の隣の席にゆったりと腰を下ろすのは律だ。
(う、嘘、え、ま、じもんの、律、さん…っ)
四人でテーマパークで遊んだ時以来。
今度いつ会えるだろか、また会えたらいいな、くらいに考えていた本人との再会がこんなにもあっさりと。
「何?お前バイト掛け持ちしてーの?」
淡い緑と白のストライプのカーディガン、黒のスキニーパンツが足の長さを強調させ、藤色の髪をまとめた頭はこれまた小顔をこれでもかと主張させている。
「俺じゃねーよ、こっち、こっちの公文が」
「お、お久しぶりです、」
促され、咄嗟に頭を下げれば聞こえる息の洩れる音。
「帆高か」
「え、あ、はい、俺です」
持っていた雑誌を見たのか、ふふっと眼を細め、大貫にアイスティーを注文する律の姿に妙に気恥ずかしい気分になった帆高はすすすっとその雑誌をバッグへと押し込めた。
「バイト探してんだ?」
「い、一応…」
「じゃ、一度見に来るか?」
「え?」
「俺のバイト先、一度見学に来る?じゃないとどんな感じか分からんだろ?」
大貫がアイスティーを置く手を止め、少し驚いた風に眼を丸くするのを気にする風でも無く、勝手知ったる顔でそれを受け取る律がこてんと首を傾げて帆高を見詰める。
「今から?明日の方がいい?」
しかもやりたいとも行くとも答えていないと言うのに話はどんどんと進んでいるようで、帆高は戸惑いつつも、律を見詰めた。
「バイトしてーんじゃないの?」
「し、したいけど、その、俺あんまりバイト経験が無くてですねぇ…」
「やってみないと分かんねーじゃん。じゃ、取り合えず明日、俺がバイト行く時に一緒に行ってみるか」
「あ、は、い」
反射的に出た答えはイエス。
「俺の番号まだ持ってる?」
「あ…ります…」
「じゃ、学校終わったら連絡して。つか、メッセージ送れるようにしといた方がいいか」
スマホ出して、と言われるがままそれにも素直に従い、誰もが使っているメッセージアプリを起動させるとそのまま通信を開始。
「検索避けしてっから、こうしないと交換出来ないんだよな」
「なるほどー…」
アプリのアドレスに並ぶ律の名前にドキドキと心臓が鳴る。嬉しいけれど、矢張り照れ臭い。
「じゃ、宜しく」
「こちらこそー…」
とんとん拍子に進む上手い話しと言うもの。
まさか、律のバイト先を紹介してもらえるとは。この場合感謝すべきは大貫だ、両手を合わせてジャンピング土下座で拝み倒してもいいとすら思える。
一体どんなバイト内容だとか、時給に休みはどうなるのかだとか、話も聞けていないが、無理そうだったら断ればいいのだ。
「り、律、あの、俺が言った手前、こう言うのはなんだけど、大丈夫なのか?」
「何が?」
「いやだから、公文でも出来そうな仕事あるか?」
「それは本人次第だろ?」
「………………」
不安はあるけれど。
律と大貫の会話を聞いて、若干青ざめた帆高の袖がくいくいと引っ張られる。
「ちょ、帆高、」
「何だよ」
小声の大海に釣られ、帆高も小声になる中、こちらを見遣る視線は戸惑いを隠せない。
「え、何…何か親しくね?」
「そ、そうか?この間ちょっと連絡先交換しただけで…」
「えー、お前すげぇな、コミュ力意外と高いっつーか」
お前だけには言われたくない。
曖昧に笑みを浮かべながら、隣から伝わる体温を感じながら帆高はカフェラテを飲み干した。
【今終わりました】
【大貫のカフェ前まで来れる?】
アプリに【はい】と送信し、帆高は煩い心臓を押さえつつ、大貫のバイト先であるカフェへと足早に急ぐ。
今日は朝から、いや、昨日の夜から緊張で身体が強張っていた。
律に会える嬉しい気持ちと紹介されたバイトが自分に合うのだろうかと言う不安。
これが綺麗に撹拌され、食事もろくに喉を通らず、母親から珍しく心配されるまで。
だが、話はここまで進んでいるのだ。逃げる訳にもいかない帆高は目的地まで着くと大きく息を吸った。
「早いな」
「あ、お疲れ様ですっ」
長く待つ事無く、すぐにやって来た律はロングTシャツに細身のパンツと、今日も麗しい姿に思わず不可解な声が出てしまいそうになる帆高は己の口を咄嗟に押さえる。
「行くか」
「は、はい、」
揺れる髪は今日は一つに括られ、それを後ろから見つめる帆高は未だに現実味の無い光景にまるで違う世界を歩いている様な気になるのだった。
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