2569人が本棚に入れています
本棚に追加
案内された場所は少しビンテージ感を醸し出す小柄なビル。
中に入ってみれば外観よりも小綺麗さを感じ、エレベーターもあると安堵する中、3階で止まったそこは扉が開けばすぐに室内と言う作り。
エレベーターを降り、入り口すぐにあるタイムカードに時刻を打ち、早々に中に進んでいく律の手慣れた様子を見遣りながらも、帆高はぐるりと周りを見渡した。
意外と広い室内は幾つかのパーテーションで区切られ、奥にはデスクが数個。そして更にその奥に一際目立つデスクがあり、電話を受けながら忙しなくメモを取っている男が一人。
全く何の仕事をしているのか、検討が付かない。
見渡した室内も閑散としてはいるが、オフィスキャビネットが壁一面に置かれ、クリーニングされた服が掛かったハンガーラックも数個設置されている。
「お疲れ様です」
「おう、りっちゃん、お疲れー」
電話を終えた男が律に気付き、手を振り挨拶を交わす中、ふっと帆高に視線を寄越すとあれ?と眼を見張った。
「誰、その子?」
「バイト候補」
「え、マジでかっ!?」
『こんにちは』と挨拶をする前に、目にも止まらぬ速さで目の前までやって来た男はその手を帆高の手にぎゅっと重ねる。
「え、」
「いやいや、いらっしゃーい。俺はコウさんって呼んで」
ぶんぶんと振られる握りしめられた手。
茶髪に人の良さそうな笑顔、加えて人当たりも良さそうな雰囲気に圧され、帆高も釣られて強張りながらも笑顔を返すと、うんうんっと大きく頷かれる。
「いいな、うん、素直そうっ!えーっと、何くん?」
「く、公文です、公文帆高です。大学一年生です」
「おぉ、いいね、うん、いいよ、いい!いつから来れる?」
「えっ、」
まさかの即採用と言う事だろうか。
有難いが流石に急すぎる。
一体何のバイトかも理解出来ていないと言うのに、『はい、喜んでぇ!!』と返事が出来る程万能型では無い。そんな返事が出来るくらいなら居酒屋にでも雇って貰う選択をしていただろう。
「あ、あの、すみません、」
説明をお願いしたい、とコウの両手を落ち着かせようとする帆高だが、その前にスパっと目の前を手が通過した。
上から下へ。
それが律の手刀だと気付いたのは、帆高の前に出て来たすらりとした肢体と痛いっ!!と手を押さえるコウが恨めし気に眼を細めているからだ。
「痛いじゃんかよっ!!酷い、りっちゃんっ!!」
「言ったでしょ、候補だって。雇う雇わないの前に何の仕事してるか教えないとですよ」
やれやれと肩を竦める律に、
「え?何、教えてねーの?」
と首を傾げるコウ。
二人の遣り取りに矢張り不安が大きくなる帆高の顔はまた引き攣った。
ほい、っと渡された缶コーヒーと共に受けたバイト内容の説明は至ってシンプルなものだった。
『うち、何でも屋なんだよ』
『ーーーーーは、』
何でも屋。
その文字通り、依頼を受けて解決する。至極単純な仕事内容の説明はものの一分程度で終わった。
コウの説明の後に一応と後付けしてくれた律の話によれば、
『昨日まで五日間は夫の浮気調査をした。所謂尾行だな。その前は老夫婦の家の電球交換、庭掃除。その前は確か、ベビーシッターだったな』
聞けば聞くほど確かに何でも屋だ。
NG依頼としては人に危害を加えるもの、依頼者の自傷行為の補助らしく、依頼人との情事、痴情のもつれになるようなものも厳しく対処するらしい。
一通りの話を聞き、
『やれそうだったら、またおいで。俺の名刺渡しておくから』
コウからの名刺を受け取り、『はい』と返事をしたものの、これは悩む。
ついでにと提示された賃金は決して悪いものでは無い。
だが、出来るだけ接客業を避けたい、人と関わり合いになるのは、と悩んでいただけに、この仕事は明らかに人との関わり合いが重要視されている。
二人と別れ、一人家路に着く中、何度溜め息を吐いた事か。
それは家に着いてからも。
(どうすっかなー…)
正直尾行くらいなら出来るかもしれない。
幼少期より影が薄いと何度も言われてきた。小学校一年生の頃、母親が隣に帆高が着いて来ていないにもかかわらず忘れてバスを降りた事は一生忘れない出来事だろう。
しかし、尾行以外の仕事はどうだろうか。
(うーん…)
風呂から上がり、濡れた髪をタオルに吸収させる間も考える。
今すぐにバイトをしたい訳では無い。やってみようかな、くらいの気持ちなのだ。
半端な気持ちでやってみて、逆に律に迷惑を掛けてしまいたくもない。
(律さんと同じバイト先って言うのは魅力的なんだけどなぁ…)
そう、魅力的。
もう一度会いたい、話をしてみたいと思っていただけに魅力的だが、
(…こう、もっと深い関係に、って訳じゃないんだよなー)
電話番号が知れたのが嬉しい。名前を呼ばれた事にテンションが上がった、メッセージのやり取りに心躍らせた。
笑顔にこちらも幸福度が爆上がりした。
けれど、それ以上にどうなりたい、こうしたい、と言う願望は無いに等しい。
ふむっと口元の黒子を指先で撫でながら、スマホを操作していると、不意に震えたそれにビクッと身体を揺らした帆高の目に画面が映る。
【バイト、どう?】
短いメッセージの送り主は律。
え、っと両手でスマホを抱え直す間に、また届くメッセージ。
【やれそうなら、また今度一緒に行くから】
「え、え、」
【帆高ならやれそうだけど、ちゃんと考えてみて】
ーーーーー……
えー……
次の日、
「その、あまり器用じゃありませんが、宜しくお願いします…っ」
コウの歓喜の声を聞きながら痛むのは心臓部分。
(本当、俺って…俺って奴は…)
これ以上どうこう、なんて思っていたのは一体誰だ。
律のメッセージで結局バイト先をそこに決めてしまった、なんて、笑えない帆高の肩は撫で肩を極めていた。
最初のコメントを投稿しよう!