扉は開けるもの

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初日はゆっくり教えたいからと、指定された土曜日に例のビルに呼び出された帆高は早速パーテーションで区切られただけの応接間に通されるとテーブル越しに座る男から、にっこりと微笑まれる。 何でも屋の社長こと、コウだ。 「いやー、まじ助かるよぉ!つい最近一人辞めてさぁ、結構うち忙しいのよ、有難い事に」 社長自ら用意してくれたコーヒーに、白い皿の上にはわざわざ近くのコンビニで購入したらい、パッケージに包まれたままの状態のシュークリームが二つ。 それらをどんとテーブルの上に置き、 「さ、さ、食べて食べて」 と、笑顔を見せるコウは矢張り人の良さそうな男と言う印象が強い。 「あ、りがとうございます、」 どぎまぎとカップを手に取り、コーヒーを飲む帆高の姿にうんうんと頷き、何枚かの書類を並べるコウはもう一度安心させるように微笑む。 早速始まるバイトの説明に高まるのは緊張感だ。 「でさ、一応シフト制にはしようと思うんだけど、都合が悪い日があったら早めに教えて欲しいんだよね」 「はい」 「ここに名前とぉー、あ、一応最初の一ヶ月は誰かとコンビで回って貰うから」 「あ、有難いです」 初めてのバイトは何でも屋。 誰かと一緒と言うのは有難い事この上無い。 「社員も居るけど、彼らは一日出っ放しの仕事してくれてるから、夕方からの時間帯で短時間バイトってのは本当助かるんだよねぇ」 「例えば何が依頼として多いんですか?」 「保育園のお迎えに行く主婦が赤ちゃんを見ていて欲しいとか、買い物を代わりに行って欲しいだとか、それこそ浮気を疑う奥さんが仕事終わりの旦那さんを尾行して欲しいだとか、まぁ、色々ね」 「なるほど…」 本当にピンキリの依頼のようだ。 今更だが、ドキドキと緊張感が湧き上がり、契約書に名前を書く手が震えそうになるも、 「良かったら、土日休日も全然受けつけるから。あ、でも出来そうに無い場合はちゃんと言ってな。無理強いはさせるつもりねーし」 ふへっと笑う気の抜ける笑顔のコウからは嘘も悪意も見受けられない。 この人は良い人だ。 妙な自信はこの安心感から。 「はい、ありがとうございます」 ゆうるりと肩の力が抜けるのを感じ、笑みを見せながら名前を書き終えた帆高は書類をコウへと渡すと、落ち着いた風に息を吐いた。 「けど、びっくりしたなぁ」 「へ?」 契約書の確認をしつつ、コーヒーをぐびりと飲むコウがちらりと視線を上げる。 「りっちゃんだよ、律くん」 「律、さんが、何か?」 「いや、あの子がバイト候補連れてくるとか、意外だったな、って」 意外とは? どう言う意味でしょうと無意識に首を傾げる帆高に苦笑いするコウは肩を竦めながらも、シュークリームの一つを手に取った。 「りっちゃんはあの顔じゃん?スタイルだって初めて見た時は足が五メートルはあると思うくらい良くてさぁ、だからうちでも指名で依頼が来るくらいなんだよね」 指名される方のお気持ちが痛い程分かります。 まぁ、言わないけれど。 ぐっと拳を握り、親指を上げるのを我慢する帆高はふむふむと頷くだけに己を押さえる。 「そんで人当たりも良くて、愛想も悪くないみたいで、うちでも割としっかりした良い子なんだけど、こう、なんつーか、ちょっと人と距離を置いてる気がしてたからさ」 「…はぁ」 「飯だって誘えば来るし、飲み会だって割と出るけど、崩れない、酔わない、終電守る、てな感じで素が見えない感じがしてた訳よ」 何となく、言っている意味がわかると言うか、イメージが付くと言ったら失礼に当たるだろうか。 まだ知り合って数ヶ月。プライベートな話だってした事も無いと言うのに。 「友達の話もあんまり聞かねーし。だから、そんな子が君を連れて来てくれたってのはちょっとビックリしてさ」 「な、るほど」 「もしかして大学の後輩とか?」 「あ、いえ、たまたま知り合った、みたいな感じです…」 「へー、余計にコウさん、驚いちゃうわ」 くるっと眼を丸くするコウに帆高もどうリアクションするべきか、曖昧な表情を浮かべるも背後から聞こえた声にびくっと大袈裟なくらいに肩を跳ね上がらせた。 「お疲れ様です」 「お、りっちゃん、お疲れさまー」 「ども、って…帆高?」 今日も出勤だったのだろう、パーテーションから顔を出した律の眼が帆高を見つけると、少しだけ見開かれ、次いでコウへとその視線を向ける。 「今日からだったんですか?」 「まぁ、説明会だ。バイト内容の」 「へぇ」 徐に帆高の隣に座る律に、スペースを空ける帆高もようやく今になって強張る唇をぎこちなく動かした。 「お、お疲れ様です、その正式に雇って貰おうと思いまして…」 「そっか。つか、だったら教えてくれたら良かったのに」 「あ、」 それは確かに、ごもっともと言うもの。 あの律の背中を押してくれるメッセージの後、【ありがとうございます】と返信してから何も言っていなかった事を思い出し、さぁっと血の気の引く帆高の顔色は鮮やかな青だ。 「す、みません…」 紹介してくれたのは律、メッセージで激励してくれたのも律だと言うのに結果を伝えていなかったとは何たる失態。 だが、 「じゃ、りっちゃん。一ヶ月帆高くんと一緒にコンビで動いてくれる?指導係って事で」 コウの発言に眼には見えない心臓が帆高の身体を突き破る。
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