扉は開けるもの

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それ以上に、 「いいっすよ」 ――――――い、 (いいんですかぁぁ…!?) 口を衝いて出そうになる声もこれまた抑えるも、あっさりとそう返事する律にとうとう頭がぱんっと弾けた音を出してしまった。 勿論誰にも聞こえないそれだが、昂る胸のざわめきが止まらない。 「じゃ、えーっと、帆高くんはいつから来れそう?」 「あ、そう、ですね…来週からでも、」 上擦りそうになる声はもう誤魔化しようも無いが努めて冷静に。 うんうんと笑顔で頷くコウがそんな帆高に『了解』と親指を立てようとした瞬間、 「お前今日はこれから何すんの?」 「へ、俺ですか、いや別に、」 「暇なんだ。じゃ、今日は帆高と回ります。見学って事で」 立ち上がった律からぐいっと右腕を掴まれ、捉われた宇宙人の如く釣られた中腰の帆高と眼を丸くするコウが交互に二人を見遣るも、あぁ、そう…っと呟くとほいほいと自分のデスクに戻るなり、ファイルを取り出す。 「んじゃ、これ。今日は十三時から十八時まで彼氏の浮気を疑う彼女さんからの依頼な」 「了解っす」 帆高の腕を引っ張った侭、コウからファイルを受け取った律は無造作にそれを肩に掛けていたバッグに突っ込むと、くるりと向き直る。 ばちっと眼が合う帆高の方へと。 「帆高は飯食った?」 「いや、今から食べようかなーって…」 時刻は十一時半。 確かにこれからの予定は無い。説明会が終わったらどこかのファーストフード店でまったり昼食でも、と思っていただけに素直にそう答えれば、ふむっと髪を掻き上げた律の藤色の髪がさらっと落ちていく。 絹のような髪とはこんな感じなのだろうか。細くキメの細かい、手触りの良さそうな、 「取り敢えず飯食うか」 「は、はい」 思考を遮られ、向かった先は近所にある喫茶店。 行きつけなのか、慣れた様子でトーストとコーヒーを注文する律に習い、帆高も同じ物を注文。思いの外美味しいコーヒーに自家製のパンに帆高も、おぉっと感嘆混じりに頬を膨らませた。 「旨い?」 「はいっ」 ふっと笑う律もさっさと食べ終えると、先ほどコウから預かったファイルを取り出し、しばらく眼を通す。 その姿だけでも神々しさを感じてしまい、まるで宗教画を見ている気分に酔いしれそうになる帆高だが、はっと何かを思い出したのか、カップを持っていた手を下ろし、その肩を竦めた。 「あの、律さん」 「何?」 「バイトを紹介してくれて、ありがとうございますっ、ついでに一ヶ月教育係とか、ご迷惑掛けると思いますけど、頑張ります」 あれよあれよと帆高の意志なんて殆ど無いに等しい決定ではあったが、最終的に決めたのは自分。 やれるだけやりたいし、本音で言えば律にも出来るだけ迷惑を掛けたくは無い。 だからこそ、改めてそう頭を下げる帆高はふんっと鼻息荒く気合を入れ直した、と言うところだろう。 円滑な人間関係を築くには、最初が肝心、挨拶は必須だ。 「まぁ、最初は色々と大変だろうから少しずつ慣れて行けばいいんだよ」 「はい」 「あんま気負い過ぎなくていいから」 またふっと息を吐く様に笑う律に、顔に熱が集まりそうになる帆高だが、 「じゃ、行こうか」 すっと立ち上がる律に慌てて残っていたコーヒーを飲み干した。 自然に友達同士で遊んでるみたいに振る舞って、とその言葉通り、律と他愛無い話をしつつ、ターゲットである男を尾行する事一時間。 あっさりと女と入って行ったホテルを前にクロを確証した帆高が半ば呆然と教えられた通りの画角で写真を撮る中、ファイルに何やら書き込んでいた律は、ふぅっと息を吐いた。 「今日は簡単だったな」 「これって、その、」 「疑ってた浮気が立証されたって報告すれば終わりだよ」 ーーーーですよねー… 結婚を考えている恋人が最近様子がおかしいと勘付いた女性が浮気調査を頼んだと言う今回の依頼。 男が外出するらしい時間帯に探りを入れ、家から尾行して、まさかの一時間程度で結果が出るとは。 「な、なんか、生々しいっすね…」 ホテル街の一角でそうぽつりと呟く帆高の撮った写真を確認する律が鼻で笑う声が聞こえる。 「男と女なんてそんなもんじゃねーの」 「へー…」 経験が無いから分からない、とは言い辛いがきっと帆高の経験値の無さは律には伝わっているかもしれない。 「写真はこれでいい。ホテルに入る姿もちゃんと撮れてるし、後は出てきた所を撮ればいいな」 「えっ、出てきた所も要るんですかっ」 「そりゃそうだろ。証拠なんてあればあるだけいいんだから」 「へ、へー…」 そんなものなのか。 男女の痴情のもつれとは如何に。未知の世界故か、はたまた経験値の無さが生み出す疑問にしか過ぎないのか。 (そういやどれくらい待ってればいいんだ?) ホテル内で行われる行為の時間配分すらも分からない帆高はそんな事をぼんやり思うも、 「二、三時間くらいだろうな」 「………」 エスパー…? まるで心情を読まれてしまったかのような律の言葉に一瞬言葉を失ってしまった。 「…あの、こうやって待ってる間って何してるんっすか?」 「近くに店でもあればそこで待つ場合もあるけど、こんなホテル街じゃぼんやり待つしかねーな」 「そうっすか…」 色々と覚える事は多そうだ。 経験値もラスボスに挑むまではなくとも、それなりに上げておくべきだったかもしれない。 (これも後学になるんかな…) 再び渡されたデジカメを握り締める帆高はこっそりと肩を竦めると目の前にあるホテルを見上げる。 まだ時間は掛かりそうだ。
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