扉は開けるもの

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――――さ、ここで問題です。 この吉木律に抱く公文帆高の感情、一体何でしょう。 (そんなもん俺が知りたいわ) ファイナルアンサーにもならない問題に、ちっと舌打ちしながら外から入る透明度の高い明るさに眼を覚ました今日は、日曜日。 昨日の夜から、改めて自分の気持ちをまとめながら考えていたこの問題は次の日になってもちっとも解決を見せようとしていない。 自分の事ながら訳が分からないと時計を見れば既に十二時前。 昨夜からこんな事を考えていた為か、バイト見学の疲労も重なり、かなり寝入ってしまったようだ。 すっ飛ばした朝食は諦め、昼飯をとるべくキッチンへと降りる帆高だが、リビングに続く扉に手を掛けた瞬間、中から悲鳴にも似た叫び声にぎょっと身体を揺らし、何事かとドアノブを勢いよく引いた。 「あああああああああぁぁぁぁ!!!!ああああたったぁぁぁぁ!!!!」 そこには土下座状態で咽び泣くような母がスマホを握りしめリビングの絨毯に蹲ると言う、一件不可解な状況が。 「―――――…何?」 一体何事だ。 まったく付いていけないこの光景に、よくよく見れば父はソファに座り自分の妻がああなっていると言うのに、何ら気にも留めていないのか、涼しい顔でリモコンを操作しながらテレビのチャンネルを確認している。 「…何、何があったんだよ、これ?」 父親の元にすすすっと移動し、怪訝そうにそう問えば、『これ』と指したものが自分の妻であるにも関わらず、指差す息子をちらっと見遣った父親は首を傾げながら、『さぁ』と笑って見せた。 「よくは知らないけど、好きなアイドルの何かが当たったみたい」 本当によく分からないみたいだ。 普段からふわふわした父親は決して家族とは言え、干渉はしない。頼まれた時以外は余計な事をしないと言うか、大らかと言うか。本人曰く見守り展望台だとかよく訳の分からない事を言っているも、実を言えば帆高もこの父親の血が色濃く受け継がれていたりする。 「…なるほど、あのハマってるやつな」 この様子、グッズでも手に入れる事が出来たのか、もしくはツアーでも当たったのか。 どちらにしろ、物理的にタンスの角に小指がぶち当たった訳でも無さそうで何より。 未だ『あああああ…っ!!』っと唸っている母親を通り過ぎキッチンへと向かった帆高は食パンを取り出し皿に乗せると、インスタントコーヒーを淹れ、ダイニングテーブルに座る。 焼く事もせず、ジャムもバターも乗せないパンを齧りつつ、コーヒーで流し込んでいると、多少現実から戻った母親がふらふらと帆高の前の椅子に座り、はぁーっと息を吐きながらコーヒーを飲んだ。 「…あの、それ俺の、」 「どうしよう、帆高!!お母さん、ハイタッチ会が当たっちゃった…!!」 ぐいっとを中身を煽る母親のカップを覗き込めば、中身は既に無い。 「俺のコーヒー…」 「もう本当どうしましょうっ!!ダイエットしなきゃ!服も、あぁ、エステも行きたい!!」 「…あぁ、そう」 電子ポットで新たな湯を沸かし、仕方ないから母親の分までコーヒーを淹れてやる中、息子は少しだけその話に耳を傾ける。 「推しに会える、って事?」 「そうなのぉ!!もう楽しみが過ぎるぅ…!!」 推しに会えると言うのはそんなに嬉しいものなのか。 ふぅんと適当な相槌を打つも母親の饒舌さは止まない。その日はパートは前日と次の日も休まないと身体が持たないだとか、何を話そうかメモを取っておかないといけないだとか、メンカラがどうだとか、正直さっぱり分からないが、 「そんなに好きなんだ」 それにしても旦那の前でこれだけ他の男の事を切々と語れるのは凄い。 いくら長年夫婦をやっていれば、冷める事だって、男女の情と言うものが家族愛になってしまうのかもしれないが、正直どうだろう。 しかし、それを口に出して言えば、一瞬きょとんと眼を丸くした母親は次いですぐに『あははははははっ』と大口を開けて笑い出した。 「違うわよ、推しってそう言うのじゃないのよぉ、勿論リアコも居るんだろうけど、基本推しって言うのはね、その子が幸せならそれでいいのよ」 「幸せ…?」 「そうそう、何て言うのかしらねー。その子が笑顔ならこっちも嬉しいし、頑張ってるなら応援してあげたいし、色々と協力だって惜しみなくしてあげたい、会えたら嬉しくて気絶しそうなんだけど、でもね、ちゃんとアイドルとファンって言う関係性は崩したくないのよっ」 (―――うん、さっぱり分からん) ずずっとコーヒーを啜る帆高の表情は虚無だ。 「でも、綺麗な状態で会いたいんだろ?」 「そりゃそうでしょ、自分のファンが小汚いとか普通嫌でしょうが」 「あ、それは確かに」 「まぁ、アイドルとファン、そこにはちゃんと壁があるけど、その子が笑顔で楽しそうなら、それでいいのよ。こっちも満たされるの。ハイタッチ会だって会えるのが嬉しいけど、応援してるよって言えるのが嬉しいんだからっ」 ふぅん、っとカップの中身をぐるりと回す。 ―――――相手が笑ってくれると、嬉しい。 ―――――頑張っているならば、応援してあげたい。 ―――――協力だって惜しみなくしたい。 ―――――感じる壁は有っても良い。 (うん?) そんな気持ちを何処かで持った気がする。 (あれ、?) 鍵穴に差し込んだ鍵が心地よい音を立てて解錠する、掌から伝わる小気味よい感覚。 そんなイメージが帆高の脳に浮かび上がると、同時にぱぁっと視界が明るくなったかのように、気持ちも一気に上昇。 (推し、って、) 開いた先に居るのは、律の姿。
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