落ちるのは穴か沼か

1/10
前へ
/87ページ
次へ

落ちるのは穴か沼か

『え?推す切っ掛け?』 『何だったかしらねー…あ、そうね、ライブ映像見てたら、最初は全然普通に若いアイドルねぇ、くらいだったんだけど』 『あの子にカメラがアップになった途端にぐっと惹かれたのよ、そうそうっ』 『一目でもう目が離せない、ドキドキが止まらなくてぇ!なんか呼吸も上手くできなくなったわねぇ。常にどこに居ても眼に留まっちゃうのよ!無意識に探しちゃうのっ』 『誰が動悸息切れ症状持ちのストーカーよ』 『これが沼落ちなの!』 一年前の自分を振り返った母。 嬉々とし、身振り手振りと身を捩らせるその姿はどうしても自分と被ってしまう。 (あー…なるほどなぁ…) 口元の黒子を撫でながら、納得できる答えが出たと息を吐く帆高はちらりと見右斜め上を見上げた。 177センチの自分よりもだいぶ上にあるその小顔。 きっと180センチ後半くらいだろうな、と推測する中、 「…何?」 いつの間にか視線を合わせる律が訝し気に帆高を見下ろす。 (あ…) どうやら『推し』の顔を見過ぎてしまったらしい。 バイト初日。 事務所に寄ってコウへの挨拶もそこそこに、ほいっと渡されたファイルにあった依頼はペットの散歩の代行と言うもの。 こんな可愛らしい仕事もあるのかと脳内に可愛らしい犬と共に散歩する想像をしていたものの、今実際に帆高が持つリードの先には大型犬の中でも色々とごついの代表格、グレート・デーンと言う犬種。 当たり前だがデカけりゃ力も強い。 「その犬ってストレスに弱いから散歩は欠かせないんだと。けど夫婦揃って今日は残業で遅くなるらしくってさ」 「な、なるほ、どっ、うわ、っ」 駄目だ、気を抜いてはいけない、その一瞬が命取り。 どっかの交通安全の標語のような言葉が浮かぶ中、散歩にはしゃぐ犬のリードを短く持ち、腹筋に力を込めた帆高は何とかその犬を自分の隣で歩かせる事に成功。 はぁっと息を吐き、額に流れる汗を拭う。 「ちなみにその子、雌で名前はキティだと」 何故に大型犬に子猫の名前を付けたのだろう。 キティを見下ろし、へっへっへっと舌を出す様に首を傾げる帆高だが、よほど散歩が嬉しいのか軽い足取りのキティに何だか良い事をしている気分になってしまう。 律と言えば、こちらもキティに負けず劣らずの大型犬ボルゾイだ。 こちらの犬も運動は必須。その為、散歩も必ず一時間以上と希望が出ている。 「そちらの犬の名前は?」 「内藤さん」 「……え、犬の名前、」 「内藤さんらしい」 「…………へぇ」 ボルゾイに向かって内藤さん、と呼んでみれば、ぴくりと動く耳にまた小さく『なるほど…』と、呟く帆高は肩を竦めた。 三十分ほど歩き、途中の公園で水分補給をさせて欲しいとあった通り、そこで犬達に水を与える中、自分達も近くの自動販売機でペットボトルを購入。 ベンチに座り、それらを飲む途中に帆高は隣に座る律に何とも言えない視線を送ってしまった。 「何だよ、何か言いたい事あんの?」 「あ、いや、」 顔が良すぎてみてました、と言える筈も無い。 組んだ足も隣に座れば、比較対象にならないくらいに長いのだと気付かされ、ぐぅっと唇を噛み締めてしまう。 勿論、悔しさや妬みから等では無い。 (俺の…推し、すげぇ) 所謂感極まった上での興奮を抑える為のもの。 律への感情が決定してしまった今、別に悪い感情を頂いていると言う訳では無いのだから、もっと堂々としてもいいのでは?と思ったりもした帆高だが、流石に男が男をじっと観察するが如く見ていると言うのは、相手は良い気分では無いだろう。 だからと言って『推しですっ』とニュアンスは違えど大海の様に伝えるべきか。 (いや…やっぱ大海みたいにはなれねーわ…) しかも大海は大貫に恋愛感情を抱いている。 自分の気持ちをいつか伝える為に大貫に声を掛けたと考えてみれば、律とどうなりたいと明確な答えがある訳ではない帆高は何も言わないのが得策かもしれない。 (特に人間不信そうだし…推しだとか言われても困るだろうしなぁ…) 今はこの関係性が一番いいのだろう。 バイト先の先輩、後輩。 いや、この関係性は贅沢以外の何者でもない。普通ならこんな風にバイト仲間になれるどころか、会話すらしないであろう、全く関係の無い人間なのだから。 「帆高?」 こうして名前を呼ばれる事だってーーー。 「あ、すみません、ちょっとぼーっとしてて、」 「ふぅん」 何も言わなくなった帆高を心配したのか、此方を覗き込むその顔がまた良い。 言えないけれど。 犬に慣れていない帆高でも一時間一緒に散歩をすれば、それなりにこの大型犬でも可愛く見えてしまうようになった。 別れ際にまたなとしゃがんで頭を撫でてやれば、くぅんっと鼻を寄せる姿に思わずきゅんとなってしまうくらいに。 「可愛い…」 またこの依頼が来た時は散歩出来るだろうか。 思わず呟く帆高の姿にふふっと笑う声は律のものだ。 「犬、好きなんだ」 「いや、特別そうじゃないけど、可愛いな、って」 懐かれて悪い気はしない。 こちらに尻尾を振る二匹に後髪引かれる思いで手を振り、扉を閉め鍵を掛ければ本日の依頼が終了だ。 「初日の感想は?」 預かった鍵を指定された場所に戻し、二人並んで事務所に戻る途中、律からの質問に帆高は口元をなぞる。 「緊張はしましたね、けど、この間の見学したのとは違って、穏やかな気持ちではいれました」 「はは」 笑う声は軽やかなそれ。
/87ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2568人が本棚に入れています
本棚に追加