落ちるのは穴か沼か

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お試し期間も含まれていた研修期間が終わる。 そうなれば、律とのコンビも解消されてしまうと言う事だ。若干寂しさも感じるが、あくまでも仕事なのだから仕方ない。 流石にバイトをそっちのけで推しだけに全力を注ぐのは人間として無理だ。それなりに人としての尊厳は最低ラインでも持っていたい。 脳内ではぁはぁっと肩で息をする母を思い浮かべる帆高の眼は遠い。 「まぁ、りっちゃんと公文くんのコンビ、結構ウケが良かったみたいで口コミとか中々いい評価貰ってんだけどなぁ」 「え、そ、そうなんですか」 「うんうん、相性良かったのかもなぁ」 相性が良いだとか、推してる側としては冥利に尽きる。 結局無自覚に口元がだるだるになってしまう帆高は仕上げた報告書をコウへと渡すと、 「俺も、楽しかったんで、律さんと一緒で」 心強かったし、と付け加え、ふっと眼を細めた。 「いいねー公文くんって素直だなぁ」 「いや、本当の事だし…」 「それでも大人になると『ありがとう』も『ごめんなさい』とか、当たり前の事すら言い辛くなる人だっているんだよ」 酸いも甘いもまだまだな帆高にはあまり理解しがたい事かもしれないが、きょとんとするその顔がコウにとってツボだったのか笑う声が室内に響く。 「何やってんすか?」 タイミングよく着替えを終えた律と言えば、笑われた事に腑に落ちない顔をする帆高とそんな彼に飴を渡すコウを見下ろし、はて?と首を傾げた。 「いやいや、もっと親しくなりたいなと言う願望から労いの飴ちゃんを公文くんに渡そうと、」 「誘拐犯の手口なんですよ」 やれやれと肩を竦め、まだまとめていなかった髪を一つに括りながら、まだソファに座る帆高へと視線を落とした。 「報告書、終わった?」 「はい、提出しましたっ」 「じゃ、さっさと帰ろ」 時刻は既に二十時になろとしている。 今日は大事な指輪を地下室で無くしてしまったと言うご婦人からの依頼を埃まみれになりながら何とか見つけたものの、だいぶ遅くなってしまった。 「お疲れ様ぁ、あぁ、そうそう。公文くんさ、」 「あ、はい」 貰った飴をコロコロと口の中で転がし、律と共に帰るべく荷物を抱えた帆高にコウが子供の様な笑みで指差したのは、壁に掛けられたカレンダー。 七月の金曜日の部分に赤い丸がある。 「今度、歓迎会するから。お試し期間も終わった事だし、大丈夫そ?」 「え、俺のですか?」 「勿論、都合が悪いなら別の日とかでも全然いいから。他の社員とかまだ顔も見てないっしょ」 確かに。 他に社員が二人いると聞いてはいるが、時間が合わない為かまだ会えた試しがない。 律以外のバイトも女性と男性それぞれ一人ずつ居り、何度か顔を会わせたものの、挨拶程度しか出来ていない。 「まぁ、飯食って挨拶程度だけど、りっちゃんも予定見といてよ」 「……また勝手に決めて」 呆れたと言わんばかりに、はぁっと溜め息を吐く美人もこれはこれで非常に美味しい。 至近距離で瞬きもせずに見詰める帆高だが、歓迎会は素直に嬉しいと思える。 「あ、あの、ありがとうございます、俺はいつでもいいんで」 大貫から伝えられたキャンプの予定は七月の終わりの週末。 少々慌ただしい月にはなりそうなものの、その全てのイベントに律が関わっていると思うと前向きな感情しかない。 それに、もう一つ待っているイベントがあるのだ。 「明日、十三時からだっけ?」 「はい」 そう、明日は買い出し。 個人的に必要な物とキャンプとして必要な物を購入する為に大貫を筆頭に大海と帆高、そして律も集まってくれると言う、ゲームで言ったらどっかのメモリアルの如く、スチル発生の大イベントと言っても過言では無いだろう。 「つか、腹減った」 「そうですね、時間掛かったし…」 流石は金曜日と言った所か。 いつもの帰り時間よりも遅いとは言え、通りに並ぶ居酒屋や食事処からは人の笑い声や話し声、出入りする人の数もそれなりに見て取れる。 きっと今から帰っても母は夕食の用意等していないだろう。 バイト時は夕食の要否を18時までに知らせておかないといけないと言う約束事をすっかり失念していた。 (仕方ない…コンビニで何か買うか…) 多分既にDVDを見ながらペンライトを力の限り振りまくると言う、推しへパワーを送り、エクササイズにもなって効率がいいと新しい宗教の様な事を行っているに違いない。 「あ、じゃあ、俺、コンビニに寄るんで、」 「帆高、これから暇?飯行かね?」 「暇です、行きましょう」 『コンビニに寄るんでこれで失礼します』と出てくる筈だった言葉は無かった事になったらしく、その上咄嗟に出た返事は光の速さ。 その上他所を向いていた身体も律と並列に。 「何食べます?」 「お前は?」 「正直腹減ってるんで何でも行けます、山賊のように食べれます」 「どんな食い方それ」 あははと笑う美形の顔を横から眺め、握りしめる拳は力強い。 (一緒に飯とか…!!) バイト中に支給される仕出しの弁当とは訳が違う。 何が好物だとかまで分かってしまう。 食べれないモノなんてあったらどうしよう、キュン死にするかもしれない。 だって、母親がそんなものだと言っていた。
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